風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

雅歌5章2節から6節、8節、そして2章5節

眠っていても
  わたしの心は目覚めていました。
恋しい人の声がする、戸をたたいています。
「わたしの妹、恋人よ、開けておくれ。
わたしの鳩、清らかなおとめよ。
わたしの頭は露に
髪は夜の露にぬれてしまった。」
衣を脱いでしまったのに
  どうしてまた着られましょう。
足を洗ってしまったのに
  どうしてまた汚せましょう。
恋しい人は透き間から手を差し伸べ
わたしの胸は高鳴りました。
恋しい人に戸を開こうと起き上がりました。
わたしの両手はミルラを滴らせ
ミルラの滴は指から取っ手にこぼれ落ちました。

戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。
恋しい人の言葉を追って
  わたしの魂は出て行きます。
求めても、あの人は見つかりません。
呼び求めても、答えてくれません。
           (雅歌5:2~6新共同訳から)


祈り会でこの雅歌の御言葉を聞いていて、罪に堕ちたアダムとエバが自分達が裸であることを知り神の目から木の間に身を隠した場面を思い浮かべた。私たちは神の前にありのままの姿で出ることが出来ないで、取り繕ったり、装ったりしている間に、神を去らせてしまう。そんなことを思った。


この続きの8節は、新共同訳では次のようになっている。

エルサレムのおとめたちよ、誓ってください
もしわたしの恋しい人を見かけたら
わたしが恋の病にかかっていることを
  その人に伝えると。(雅歌5:8新共同訳)


口語訳では、

エルサレムの娘たちよ、
わたしはあなたがたに誓って、お願いする。
もしわが愛する者を見たなら、
わたしが愛のために病みわずらっていると、
彼に告げてください。(雅歌5:8口語訳)


新共同訳で「恋」と訳されている部分が、新改訳でも、フランシスコ会訳でも、岩波訳でも「愛」と訳されている。

又、ここと連動するように、2章5節でも新共同訳では、「ぶどうのお菓子でわたしを養い りんごで力づけてください。わたしは恋に病んでいますから」(新共同訳2:5)となっているが、他の訳では、「干ぶどうをもって、わたしに力をつけ、りんごをもって、わたしに元気をつけてください。わたしは愛のために病みわずらっているのです」(口語訳2:5)のように、「恋」でなく「愛」となっている。


訳というのは難しいものだと思う。
私は原語についての知識を全く持っていないので、言及する資格もないかも知れないが、ここは「恋」ではなくて「愛」だろう!と思う。「愛」でなくてはならないのではないかとさえ思う。恋のようにのぼせ上がるのは簡単だけど、罪の世にあって愛を持続するのは並大抵ではないのだから、エネルギーも栄養素もたっぷり必要なのではないか、と。


わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である。(ヨハネによる福音書9:4~5)