風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

どんな時にもっとも悲しいと思うだろうか

どんな時にもっとも悲しいと思うだろうか、と考えた。すると、目の前で悲しんでいる、苦しんでいる人を慰めることが出来ない時に自分はもっとも悲しみを覚えるのだ、と思った。
こちらに帰って来て二年目に、鬱で教会員が自殺した。病気で礼拝に出られないことを苦にしていた。その時はまだ、家族も牧師も私もそれほど深刻だとは思っていなかった。鬱状態に陥っているとも思っていなかった。自宅を訪ねて「礼拝に出られなくても大丈夫ですよ。私が御言葉を持って時々お訪ねしますから」と話した。その後、家族が、朝、台所で庖丁を持って立ち尽くしているのを見つけ、病院に収容されることになった。私はご自宅を訪ねた時の感触から、牧師や私はあまり病院へは顔を出さない方が良いように思い、入院している間は治療者に任せてそっとしておくことに決めた。鬱の気質を持っている方は自分で自分を縛ると感じたからだ。こちらがどんなに「礼拝に出られなくても構わない」と言っても、その言葉を聞いて、礼拝に出られない自分を責める。関われば関わるほど、自分で自分を責めさせることになる。そう判断したからだった。そうして半年が過ぎた頃、自殺したと連絡が入った。三日ほど前に退院していたという。鬱は治りかけの頃が一番危ない、自殺するエネルギーが満ちてくるからだ。そんなことも知っていた。鬱病に関する分厚い本も持っていた。所々、読んでもいた。なのに、何も役に立たなかった。何も出来ないまま死なせてしまった。
それから、どうしたら良かったのだろうかと何度も何度も考えた。苦しい時に、ますます苦しい状況に追い詰める信仰とは何だろうかと、信仰についても繰り返し考えた。そしてその間、大量の涙を流した。
無力感に沈む時、十字架のキリストをいつも思う。人となって来られ、無力を味わい尽くして死なれたキリストのことを。