風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

娘と読んだ・・・2(聖書の中の物語)

娘にグリム童話の読み聞かせを始めてから、聖書の中にもハッピーエンドで終わる物語があるじゃないかと思ったのだった。たとえば、兄弟達にエジプトへと売られたヨセフが神様に守られて、その兄弟と父親を飢饉から救い出す物語など・・。

その辺りのことに関して、後に読んだ希望への教育2子どもと祝うキリスト教の祭り』レギーネ・シントラー=著(日本基督教団出版局)がとても参考になったので、ところどころ抜粋してみたい。


第四章 おとぎ話と宗教教育

おとぎ話はキリスト教的であるか
 宗教教育との関連でおとぎ話を話題にするのは奇異な感を抱かせるかもしれません。・・。あやしい人物たちの登場するおとぎ話は、明らかに何か異教的なものを持っていないでしょうか。・・・。
 おとぎ話をよく見てみると、それは神について語るものではないことがわかるでしょう。神以外のあやしい諸々の力が奇跡行為を起こし、物語の英雄を助けます。神のための場はここには全く備えられていません。
 私たちの民衆的おとぎ話は、ヤーコプおよびヴィルヘルム・グリムによって前世紀の初めに集成され、・・ました。
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 もう一つの、宗教的な、まさにはっきりとキリスト教的な解釈をする気にさせるおとぎ話は、『星の銀貨』です。それは、身につけているわずかなものさえもあげてしまう貧しい子どもの物語です。最初の版では「彼女は出ていく」であったのが、あとには「彼女は愛する神様を信頼して野に出ていく」となっています。すでにこの変更が出来事の宗教的解釈を思いつかせます。結びではさらに天から星が落ち、ぴかぴかの銀貨となります。その子どもはその慈悲深さに対して豊かに報いられたのです。
 実際に私たちはこのおとぎ話を手がかりに、慎重に、より瞑想的な仕方で、ルカによる福音書一七章三三節のような聖書のことばの理解へと子どもたちを導くことができるでしょう。「自分のいのちを得ようとする者はそれを失い、それを失う者は新たにいのちを得るであろう」。私たちはその際に聖書を引用する必要はなく、「与えることができる」ということに対する理解をおとぎ話の具象性によって呼び起こすことができるでしょう。ところでそれはおとぎ話の中で繰り返されるモチーフです。・・。「星が天から落ちる」こと、つまりそこで善には報い、もちろん悪は罰する「天の神」に対する直接の関連が打ち立てられていますが、このことは、子どもとかかわる際の伝統的な宗教的言語用法と対応しています。けれども、おとぎ話が実際上いつもそうさせようとする、そのような善と悪を際立たせる描き方に対しては、私はむしろ神について物語ることとの関連において警告を発するでしょう。それに対して、この具象的なおとぎ話を手がかりに、子どもたちと一緒に「与えること」、「贈ること」について考えをめぐらすことは非常に価値のあることであり、また重要なことです。・・。けれども子どもたちとの狭義の宗教的会話のためには、聖書の物語のほうがおとぎ話より適切です。なぜならおとぎ話は、それが誰によって引き起こされたかを明らかにしないままに魔術的出来事のほうに子どもの注意を向けてしまうからです。

宗教体験の先行経験としてのおとぎ話
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 宗教的体験の前提であるそのような感情教育はーおとぎ話と一緒にー特定の方向へと進んでいきます。私たちは、おとぎ話の中には救済されねばならない誰かがいつもいることを見てきました。英雄は救済者であり、あるいは救済を必要とする者です。悪はたいてい脅かすものとして存在しています。悪に対する不安が、英雄を、そして一緒に体験している子どもを襲うのです。いつも繰り返しこのおとぎ話の中の悪は克服されます。確かに英雄の受ける幸せは、りっぱなお城の王となることや美しいお姫さまとの結婚といった、この世的な幸せです。けれどもこの良きこと、美しきものは、喜ばしい未来への新たな希望を絶えず具現しているのです。子どもが今や、希望が失望に終わらないことを知り、そして新しいおとぎ話の中で繰り返し体験するとしたら、そのようにして希望を持つ力は育っていきます。それはさしあたってはキリスト教的希望ではありません。それはそのための予備練習です。それは恐れる必要がない未来に対して心が開かれていることです。この美しい未来への途上で何か魔術的なもの、私たちの現実の向こう側にあるものが助けとなりうることが、子どもの無意識の中にきっと残っていくでしょう。

第五章 聖書のお話を物語ることについて
 子どもたちが神について尋ねるとき、正直に、しかも子どもに満足がいくように答えることはむずかしい、ということを私たちはいつも繰り返し知らされています。神の特色を数え上げたり、教理的な命題を口にすることでは、私たちも子どもたちも満足しません。ですから、いっそう大切なことは、子どもたちに、神についての物語を語ることができるということなのです。神のことを知らせてくれる人々、特に神と出会い神を体験した人々について繰り返し物語る聖書の物語に、私たちは感謝するものです。子どもたちは、聖書の人々と共に神を体験することができます。

聖書のお話
二、いつ物語るか
さて、聖書の物語には、目に見えず、子どもによって体験もされない、しかしそれでいて非常に不思議なおとぎ話の登場人物とは違って、私たちと直接関係を持たれる神が問題となります。ですから、私たちは子どもたちに語る最初の聖書物語を、小さいときに聞かせるおとぎ話と同時には語りません。そうすることによって、神が、魔法使いや魔女と混同されることを防ぎたいのです。
 私に適切と思われるのは、およそ五歳の年齢です。この年齢になると、子どもたちは、生命の起源について、死について、私たちの存在の意味について、驚くほど深い意味の問いを持ちます。それに答えるために、私たちは神をぬきにしてはどうしようもないのです。

レギーネ・シントラー=著『希望への教育2子どもと祝うキリスト教の祭り』(日本基督教団出版局)より抜粋引用
この本には、他にも、聖書のお話をどのように語るか等についても詳しく述べておられるので、日曜学校でお話をする教師達にも有益であると思う。

レギーネさんは、チューリッヒ大学から神学で名誉博士の称号を受けておられ、ご自分でも聖書物語を出版されている。レギーネ・シントラー=作、シュチェパン・ザヴゼル=絵『聖書物語』(福音館書店。この聖書物語には、レギーネさんの聖書解釈が映し出されていて、なかでもヨブ記の解釈には圧倒され私などは深く感動したのだが、この解釈が入っているために子どもにはどうだろうと思う方もいるかもしれない。しかし、又、絵が素晴らしく、縦287mm、横245mmの大判の本のダイナミックな絵を子どもと一緒に見るのは楽しいかもしれない。

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聖書に忠実でしかも子どものために易しく書かれたものでは、こぐま社から出ている『子どもに語る聖書』が良いと思う。これは、以前は『はじめての聖書』というタイトルで旧約と新約の2巻本になっていたものである。こぐま社の社長さんはキリスト者であるので、「子ども達のために、聖書をそのまま易しい言葉で訳したもの」ということに重点をおいて造られたようである。