風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

三宝柑(さんぽうかん)の花

三宝柑の花は、疑うことをまるで知らない嬰児の瞳のようだ。

この花を見ていてこんな聖書の言葉を思い出した。

戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。(箴言7:2)
だけど、瞳のように教えを守れとは、どういうことだろう。
ずっと、混じりけのない幼子の澄んだ瞳のような心を持って神の教えを守れと言っているのだと思っていた。でも、違うような気がする。

申命記の次の言葉を見ると何となく分かるような気がする。

主は荒れ野で彼を見いだし
獣のほえる不毛の地でこれを見つけ
これを囲い、いたわり
御自分のひとみのように守られた。
         (申命記32:10)

瞳というのは大事な器官だ。私達の体の中で大事でない器官はないだろうけれど、生え替わったり、大方を切り取っても大丈夫と言える器官ではない。命が途絶えればもはや瞳孔は開いたままとなり、真実を見極めることも出来なくなる。そのように大切な器官だということだ。

けれど、聖書はただ「わたしの教えを大切に守れ」とは言わないで、「瞳のように守れ」と言うんだな。美しい言葉だと思う。

神は、荒れ野で見出した者を御自分のひとみのように大切に守られるお方だ。