風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

罪と死

[人の罪]を完全に理解することは私たちには出来ないのではないかと思う。けれど、その[人の罪]を自分のこととして多少なりとも自覚するのでなければ、罪からの救いを喜ぶことは出来ないだろう。

キリスト教では、私たちの罪を贖うためにキリストが十字架にかかられたという。けれど、中には「私は法律を犯すようなことはしていないし、これまでだって善良な市民としてまじめに働いて生きてきた」と思われる方もいるだろう。
キリスト教の罪について理解するためには、キリスト教でいうところの人類の始祖アダムの犯した罪にまで遡らなければならない。なぜなら、アダムが罪を犯して以来、私たちに罪と死とが入って来たと聖書が語っているからだ。楽園で死ぬこともなく永遠に生き続けられたはずの私たちが、アダムの堕罪以来、死すべき生を生きる者となった。そんなものは私と何の関わりもないと思われるかも知れないが・・。

一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。(ローマの信徒への手紙5:12)
私の亡くなった友は、中学の頃、「苦しい人生を繰り返すのなら生まれ変わりたいとは思わない。(死という)終わりがあるほうがいい」と言っていた。
まだ成人していない子ども達を置いて、また母よりも先に逝きたいはずがなかろうから、自力で歩けなくなってからも友はリハビリを続け、最後まで懸命に生きようとしたが。

どんなにアダムなどと自分は関係ないと思っても、私たちの目の前には死というものが厳然と立ちはだかっている。そして、死に伴って病も苦しみも悲しみも存在する。

私たちの罪というとき、それは、私たちが個々に犯した罪という以前に、アダムが堕ちた罪の中に私たちも生きているというふうに理解できるのではないか、と私は思う。私たちは罪の世にあって呻いている。その罪の世界から私たちを救い出すためにキリストは十字架にかかられたのだ、と考えるほうが理解しやすいかもしれない。