風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

私たちは証(しるし)を求める

創世記15章1節から21節のところで、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせよう」と言われる神に対してアブラハムは、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」と言って、しるしを求めた。それに対して神は、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」と言われる。アブラハムはこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。これは、神は約束にあたって命を賭けられるということを表しており、ここには、キリストの十字架が示されているという。そして、深い眠りの中でアブラハムは、神の[ 出エジプト]の救いの業を示される。
その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。(創世記15:18)
私たちはしるしを求める。
出エジプト記の中でも、不満を投げつける民に手を焼いたモーセが神に窮状を訴えると、神はモーセに指示して民にしるしを与えられた。ここのところは聖書にこう書かれている。そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。(出エジプト記17:7)

イスラエルの民は、神から与えられたしるしを、そして[ 出エジプト]の救いの業を子孫に語り伝えながら歩んだ。
あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。(申命記6:21)
あなたが、「これらの国々の民はこちらよりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう」と考えるときにも、彼らを恐れることなく、あなたの神、主がファラオおよびエジプトの全土になさったことを思い起こしなさい。(申命記7:17〜18)
旧約には、しるしを求める民に証(しるし)を与え、証(しるし)を与え、そして遠くキリストによる救いの標(しるし)を示しながら、敵の手から民を導き出される正義と真実の神の姿が描かれている、と思う。


私は、「私たちはアブラハムと同じ状況の中に生きているのではないか」と、書いた。けれど、決定的に違っている点が一つある。私たちにはすでにキリストによる神の救いが与えられているということだ。私たちはキリストによる救いに向かって生きているのではない。すでに与えられたキリストによる救いの業を信じて、キリストが来られた時点から神の国の到来へ向けて生きているのだ。
キリストの到来によって全ての人間が救いの対象となった。

恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。(ルカによる福音書2:10)

すべての人を救う神の恵みが現れた。(テトスへの手紙2:11)

神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。(Ⅰテモテへの手紙2:4、6)

もうすぐ、クリスマスだ。