風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

待降節(アドヴェント)

アドヴェントに入って、礼拝ではアブラハムの召命のところから聖書の話を聞いている。待降節第2主日の聖書は、創世記15章1節から21節だった。

神はアブラハム「恐れてはならない」と語りかけられる。アブラハムが恐れていたからだという。何を恐れていたのかは、はっきりとは記されていない。跡継ぎもなく、自分がこの世に生まれてきたという何物をも残せないで死んでゆくことを恐れていたのだろうか?神の語りかけに対してアブラハムは問いかける。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」そして、さらに訴えかける。「あなたはわたしに子を賜らないので、わたしの家に生まれたしもべが、あとつぎとなるでしょう」と。すると、神はアブラハムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」と言われた。アブラハム(この言葉を聞いて、)(神)を信じた」(創世記15:6)と聖書には記されている。

アブラハムはその生涯において何か良い行いをしたわけではない。恵まれない者を助けたとか、慈善事業をしたとか、そういったことは一切書かれていない。ただ神の言葉を聞いて信じたということだけが書かれている。

この後、老齢となったアブラハムはイサクという子どもを授かるが、天の星のような無数の子孫を目にしてから死ぬわけではない(最近は、夜空を見上げてもあまりたくさんの星を見ることは出来ないが・・)。アブラハムは自分が生きている間に神の与えてくださったものを全て見なくても信じて生きた、というのである。

彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。(ローマ人への手紙4:17〜18)

今の私たちも、4000年前のアブラハムと同じ状況の中に生きているのではないだろうか。イスラエルの民によって待ち続けられた神の救いは、時到ってキリストによって成就された。しかし2000年後の私たちの目には、神の国が実現しつつあるようには全く見えない。相変わらず世の中には争いが絶えず、私たちのすぐ周りにも悪がはびこっている。地震が起こり津波が襲い原発の被害におびえている。原発の問題も自分の命のあるうちに解決されるようには思われない。どこに望みを置けば良いのか分からない世界に私たちも生きているのだ。

しかし、私たちキリスト者は、この何も望み得ない世界の中で、聖書から神の言葉を聞き取り、神の導きを信じて生きる者たちなのではないか!と思う。

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じた。
              (ローマ人への手紙4:21)