風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葉を生ける???

菊は葉を生けると聞いた記憶があるのだが、菊でもなんでも、葉は光合成のためのものだから、庭から切って生ける時には、葉は造形的に必要最小限を残して切り落とす方が良いと思う。

 

特に菊の葉は水に入れると腐って水を汚すから足元を隠す程度に残して切り取る。

 

そうすると、蕾だった花もこんなふうに全部咲いてくれる。

こちらは、

生けた直後。



 

 

菊とか、

パンジーとか、

顔のように見える花はこっちを向いているようで、

ウエルカムフラワーにとても良い。

 

meromeropy77.hatenablog.com

 

 

 

 

 

「私たちは愛されるために生まれた」(創世記1:27~28)長老説教抜粋

「私たちは愛されるために生まれた」

 

 2022年11月13日(日) 聖霊降臨日後第23主日

聖書箇所:創世記  1章27節〜28節

                               長老説教抜粋

 

1.(はじめに)

  今日、読まれた創世記は、聖書の最初に載っています。世界の始まりがどのようにしてできたのかが記されているのです。

 しかし、創世記は、最初にできたわけではありません。創世記はいくつもの資料が合わさってできています。今日の聖書の箇所のいわゆるP資料(祭司的資料)は、今から約2500年前のバビロン捕囚もしくはそれ以降につくられたものだと言われています。バビロン捕囚とは、「前586年、南ユダ王国バビロニアに征服され、イスラエルの民が連行され、およそ50年もの長い間、捕囚生活をバビロニアで行った。その後、ペルシアのキュロス2世によって解放され、やっと故郷の地に戻ることが許された」、というものです。神さまの民なのにどうしてイスラエルが捕囚の民になってしまうのか。神さまを拝む神殿も壊された。私たちは一体何者なのか。苦労の絶えない生活の中で、ちょっと立ち止まり、今までの言い伝えをまとめ、できたのが創世記のP資料でした。

 

(略)

 

3.(私たちは愛されるために生まれた)

 男と女に創造された話しに戻ります。男と女から子は生まれます。つまり、生みの父、生みの母がいて、私たちが生まれたという事実は、自分の意思でかえることはできません。「神さま、このような大変な家庭の境遇の中でなぜ、私は生まれているのですか?もっと幸せな家庭の方がよかった」「私はこの世に望まれて生まれてはいないのではないでしょうか」と苦しくて叫んでしまう人も皆さんの中にはおられることでしょう。私もこのような問いかけにとても答えることはできません。なぜですか?どうしてですか?と私も苦しむ皆さんと一緒になって神さまに問いかけ、考えることしかできません。しかし、創世記がいっていることは、このような状態であったとしても男と女を通して、神さまが(神さまが主語)人を創造した。神さまがご自分にかたどって創造された。といわれているのです。神さまは私たちをこの世に望んで生まれさせたのです。たとえ、どういう状況であろうとも、わたしたちは神さまによって愛されるために生まれさせてくださった、と創世記はいっているのです。

 

(略)

 

 私たちはみな罪人なのです。(ローマ3:9)「正しい者はいない。一人もいない。」たとえ、生みの父、生みの母であったとしても罪を持っているのです。しかし、そのような父母を主イエスキリストが赦し、愛し、生かしてくださった。そしてあなたという存在をその父母を通して神さまが生まれさせてくださったのです。  「神さまが生まれさせてくださった」ということについて、次のような聖書箇所もあります。詩編139篇13節~16節「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。」

私たちはこのことを深く憶えたいと思います。

4.(創世記の編集成立から)

 先ほどもお話ししたように今日の聖書箇所の創世記P資料は、バビロン捕囚もしくはそれ以降のときに作られたものだと言われています。神さまの民といわれていたイスラエルの民は、バビロニアに支配され、絶望的になっていたことでしょう。また、たとえ、やっと捕囚が終わり、帰還したとしても荒れ果てた故郷を見て、不安と絶望の中にいたことでしょう。とてもイスラエルの民を増やすことなど考えられない状態でした。そのような中で、イスラエルの民に神さまは「生めよ、増えよ、地に満ちよ」「自然を支配する(責任を持つ)という働きをあなた方はもっている」「私があなた方をこの世に望んで生まれさせたのだ」と語られたのです。捕囚になっていた人々は「えっ?」と思ったかもしれません。でもこの言葉を大切にすることができました。捕囚になっていた人々にとって、この言葉は大きな希望となっていきました。そしてこの希望を持ち続け、この後もすごしていくことになりました。

5.(私たち自身にむけて)

 私たちも捕囚になった人々と同じようにこの創世記の言葉を大切にして希望を持ち続けたいと思います。今、私たちには、不安で暗闇の中にいます。コロナの終息もなかなか見込めません。自然災害も多く起こっています。いろいろな問題が起こり、到底平和な生活世とは思えません。そして多くの人の苦しみや悲しみが実際あるのです。「どうして、どうしてと叫ばざるを得ません」このような中で私たちは気持ちも塞ぎ込み、何もできていない自分のダメさを感じてしまいます。私自身、自分が神さまにかたどり、創られた人などとは到底思えないのです。でも、神さまの一人子、主イエス・キリストは十字架にかかり、復活されました。創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。神さまはすべてのものをご覧になって「極めて良かった」といわれています。主イエス・キリストによっては私たちも「極めて良かった人」つまり「神さまにかたどって創られた人」、にもう一度新しくつくりかえてくださるのです。聖霊が働き、神さまを愛し、隣人を愛することができるようにと神さまが私たちをつくりかえてくださるのです。

6.(おわりに)

 わたしたちの世はまだ、神さまが御支配される世とは到底なっていません。しかし、このような中でも神さまは私たちと共におられます。だから、私たちはどのようなとき、どのような状態の時であっても、神さまに創られた人、創りかえられた人として励んでいきたいと思うのです。

 

祈り

 聖なる神さま、礼拝に招かれ感謝いたします。あなたは私たちをかけがえのないものとして創ってくださいました。そして「神さまにかたどって創られたもの」にもう一度つくりかえてくださっています。どうか、あなたによって神さまを愛し、人を愛することができますように。そしてあなたが創られた自然を愛することができますように。主イエスキリストの御名によって祈ります。

 

中間の略させて頂いた部分では、最近行われた修養会で語られた牧師のレジメからの引用が読み上げられていた。

しかし私にはその牧師の言葉よりも、長老の語られた「私もこのような問いかけにとても答えることはできません。なぜですか?どうしてですか?と私も苦しむ皆さんと一緒になって神さまに問いかけ、考えることしかできません」という言葉の方が心に響いた。

そして長老のこの言葉をお聴きして、夫の以下の説教を思い浮かべた。

myrtus77.hatenablog.com

 

 

娘が帰ってきて、石を添えた。



 

  

 

 

 

 

 

音楽と文学を愛した義父を送る。

夫への手紙

招きの詞に、母の葬儀であなたが選んでくれた哀歌3章の続きの箇所を考えました。

 

主に望みをおき、尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる。

主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

若いときに軛を負った人は、幸いを得る。(哀歌3:25~27 新共同訳)

 

お父さんは、心の奥で神を尋ね求めておられた、と思いますから。

 

 

夏に送った讃美歌を棺の中に入れて頂くようお願いした。

義父は、『聴く』に載せた私の子どもの本の紹介文の一番の読者だった。

讃美歌第二編136番

 

 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

 そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。(ヨハネの黙示録22:5,6)

 

 

 

 

 

 

 

その願いが祈りとなって・・。

一年半ぶりに面会が許された。色々規制のかかった面会だったが、従兄弟からの電話の内容を伝えた。目も開けず、じっと聞いているようだったが最後に、「『私は仏教だけど祈ってるから』って言ってくれてたよ」、と言うと、深く何度も頷いた。

 

かつて夫は、説教で、こんな風に語っていたのだった。

fruktoj-jahurto.hatenablog.com

 人は神に造られたので、信仰のあるなしに関わらず、祈りは人にとって本質的なものです。例えば、大切な人が事故や病気で命が危ぶまれるとき、「助かりますように」と祈らない人がいるでしょうか。大切な人のためにその無事を、その幸せを願う。その願いが祈りとなっていきます。自分は何もすることができない。それでもその人の幸いを願う。人が生きていくためには、神の助けと導きが必要なことを人は本質的に知っているのです。

 しかしそれでも人は罪を抱えているので、祈れなくなります。

 一つには、受けとめきれない悲しい出来事、困難に出会ったときです。とても神に感謝なんてできない。神を喜ぶことなんてできない。「神さま、どうしてですか」と言って絶句してしまう。そういうことが人生では起こってきます。

 そんなとき、信仰の友が祈れない自分のために祈ってくれることもあるでしょう。たとえそういう人がいないときであっても、聖霊なる神がわたしたちと共にいてくださり「弱いわたしたちを助けてくださいます。」

 わたしたちが涙を流し慟哭するとき、歯ぎしりし「どうしてなんだ」と叫び続けるとき、希望を失い何も考えられないとき、聖霊なる神自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。エス キリストがわたしたちの罪を負って苦しんでくださったように、聖霊も祈れないわたしたちの苦しみを担ってうめかれるのです。

 

 

父なる神様、この時を感謝致します。
あなたが今日まで○○を守ってくださったことを感謝致します。
私たちがこれからもあなたの愛を深く覚えることができますように。
お世話になっている○○病院のお一人お一人に感謝致します。
コロナ禍の中で医療に携わる人達をどうかあなたがお支えください。
この祈りをイエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に大事なもの」(ホセア書9:1~9)

  「本当に大事なもの」

 
 2022年11月6日(日) 聖霊降臨日後第22主日

聖書箇所:ホセア書  9章1節〜9節

  
 今日の聖書の箇所、預言者ホセアのこの言葉は、秋の収穫祭である仮庵の祭の際に語られた言葉です。仮庵の祭はイスラエルの三大祭の一つで、そのうちで最も盛大に祝われた祭です。チスリの月の15日、すなわち秋分の日に近い満月の日から1週間行われた祭りです。当時イスラエルは春と秋と2回新年を迎えていたのですが、この仮庵の祭は、秋の収穫を終わり、新しい年に入ってから守る祭で、人々はぶどう・いちじくなどの収穫をし、感謝をもって年を終わり、新しい年を迎えるのです。人々は田畑に仮小屋を作り、そこで寝起きし、収穫の感謝の供え物をしました。この収穫感謝に歴史的意義が加わり、荒れ野での40年にわたる天幕の生活と結びついて、「仮庵の祭」と呼ばれるようになりました。この祭の最後の日には、聖書日課の最後の段落である申命記33章34章が朗読され、この日は「律法の喜び」と呼ばれ、読み終えられた律法の巻物は直ちに巻き返され、次の新しい年度の朗読に備えました。

 新約では、ヨハネによる福音書7章2節に仮庵の祭が記されていますが、この時には荒れ野で岩から湧き出した水をかたどり、シロアムの池の水を汲んで毎日祭壇に注ぐ行事が行われていました。また神殿の婦人の庭に4つの高い燭台を立て、荒れ野でイスラエルを導いた火の柱を記念していました。

 

 さてホセアはこのイスラエル最大の祭のさなかに預言したわけですが、この時多くの巡礼者が全土から喜ばしい祭のためにベテルあるいはサマリアの聖所に集まってきました。集まった人々の喜びの歌・感謝の歌を遮って、祭の喜びの杯に苦い一滴を注ぐように、預言者の厳粛な非難の言葉が告げられたのです。このような場面において、個人が大衆に、その最も神聖としている感情や希望を傷つけるような言葉をもって対抗していくには、どれほど強い勇気を必要とするか、ということを考えさせられます。預言者が嘲りと迫害の中を歩んだのも当然のことと言えます。

 ホセアが「喜ぶな」と命じたのは、人々の喜びが神に対する不信仰から生まれたものだったからです。ホセアは、イスラエルの民が行う祭を批判して、神に対する祭ではないと非難します。イスラエルは豊作の神バアルに擦り寄り、豊かさを第一に約束する偶像を愛しました。ホセアにしてみれば、イスラエルが献げる収穫物は淫行の報酬とも言うべきものでした。イスラエルは献げ物さえ持ってくれば神に顧みられると考えていたようですが、それはあり得ないことでした。 勘違いしてしまうような豊かな時代があった。丁度今のわたしたちのように・・・。

 

 預言者は偶像礼拝を認めません。もし神との関係がイスラエルの不信仰によって壊され、その結果、契約の真実に支えられた祭ができなくなれば、存在意義を失った神の民は滅亡へと向かうばかりです。彼らが求めた豊かさもいつしか離れ去っていくでしょう。どれほどバアルを礼拝したとしても、彼らが頼りとしたものは応えてくれず、必要としたものは手から去り、そして、神の救いの御業の結果与えられた約束の地をも離れ去ることになるでしょう。まるでエデンの園で罪を犯したアダムとエバエデンの園を追われたように。

 本当に大事なものを捨ててしまうとはどういうことなのか。どんなことになってしまうのか分かっているのか。

 4節にそのことが記されています。4節はヘブライ語本文の破損があり、どの聖書を見てもそれぞれ訳が違うほど本文の確定が難しいところです。4節、5節「主にぶどう酒を献げることもできず、いけにえを献げても、受け入れられない。彼らの食べ物は偶像に献げられたパンだ。それを食べる者は皆、汚れる。彼らのパンは自分の欲望のためだ。それを主の神殿にもたらしてはならない。祝いの日、主の祭の日にお前たちはどうするつもりか。」

 

 今、人々は祭を喜んでいますが、本当に大事なものを捨ててしまうとわたしたちは祝うということができなくなってしまいます。どの民族であっても、祝い事・祭のない民はいません。人は生きることを喜びたい、感謝したい。しかし本当に大事なものを捨ててしまうと、人が生きる上で欠かすことのできなかった祭ができなくなってしまいます。 たとえ神のもとを去り、偶像に寄りすがっても、そこには希望や喜びや感謝はあません。

 6節「見よ、彼らが滅びを逃れても、エジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。彼らの銀も宝物もいらくさに覆われ、天幕には茨がはびこる。」

 神を偽り、神の言を軽んじる民に審きが下されます。

 7節~9節「裁きの日が来た。決裁の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので、預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。預言者はわが神と共にあるが、エフライムは彼を待ち伏せて、その行く道のどこにも鳥を取る者の罠を仕掛け、その神の家を敵意で満たす。ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。」

 神の民は神に従うのではなく、自分たちのあり方を非難する預言者を葬り去ろうとします。預言者は愚か者・狂った者とされ、預言者に敵対し、神に敵対する敵意が国を覆います。神の愛で満たされるはずの国が、神に対する敵意で満ちるとは悲しむべき出来事です。神の裁きによってしか罪から離れることができないとは・・・。 

 

 

 しかし、これで終わってしまうのではありません。神はこの罪人のために御子を救い主として遣わされました。淫行の価しか神のもとに持ってこれない罪人のために、完全な贖いの供え物として御子を差し出されました。献げられない民に代わって神が献げてくださいました。

 聖晩餐はその神の救いの御業を証しするもの。わたしたちに対する神の愛を証しするもの。わたしたちを喜びで満たす主の祝宴です。神は「これを受け取って喜べ」と聖晩餐を備えてくださいました。

 罪のままでは喜ぶことができない。神から離れたままで喜ぶことはできない。神のもとにこそわたしたちの本当の喜び・感謝・祭があります。 

 

 厳しい預言者の言葉を支え続けたのは、限りない神の愛です。

 

 

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神さま。わたくしたちはこの世の事柄に心奪われ神さまの姿を見失ことの多い者です。

このようなわたくしたちのために、独り子イエスさまを遣わしてくださるほど、この世を愛して下さいました。

神さまのその愛に依り頼んで日々を歩んで行くことが出来ますように切にお願い致します。

この整いません小さな祈りを、主イエス・キリストの御名によりましてお献げいたします。

   アーメン

 

 

長老方の代読をお聞きしていると、ここを伝えようと、強調して読んで下さっているのが、分かる。ほんとうに感謝!

 

 

今日の説教は「厳しい預言者の言葉を支え続けたのは、限りない神の愛です」と締め括られているが、厳しい真実を語るというのは、現代においても、牧師でもなかなかできないものではないかと思える。

いつもお聞きしている他教会の先生の今日のお説教も真実を語っておられて、感銘を受けたのだが、今の時代にここまで語ることのできる牧師はそれほど多くはいないと思った。避けて通れるものなら通りたい、お茶を濁してお仕舞いにしたい、そう思える事柄に向き合って語るというのは・・。

しかし、罪と向き合って語る所においてこそ、キリストの十字架が際立って見えてくるのではないだろうか。

 

「人は皆、罪人なのだ」、「人は皆、神の救いを見る(ルカによる福音書3:6)」(今日のお説教から)