風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

癒やしの奇跡を語るということ

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」エスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(マルコによる福音書2:1~12)

 

体調を崩して祈り会を欠席した。昼間陽に当たりすぎて銅がやられたせいか少し目眩もあった。その日に予定していたこの聖書箇所を横になって読んでいた。

(祈り会では近隣の教会の牧師の説教録音を聞いている。その日は予定の録音テープが見つからなかったということでその先の箇所に変更したそうだが・・。)

 

癒やしの奇跡について語るのは本当に難しいことだろうと思う。それは、現実の中で癒されないことの方が圧倒的に多いと思えるからだ。

私自身、生まれたときからアトピー性皮膚炎と言われ、厳しい除去食をしたにもかかわらず二十を過ぎてから薬の副作用で未だに苦しみ続けている娘を抱えている。夫も長年飲んでいた薬によって体質が逆転し、新たな病気になり、今はまた再起できるかどうかも分からない病の床に伏している。

そういう人間には、安易に語られる癒やしの奇跡の説教は上滑りで心に響いてこないものとなる。説教者自身が神から聴き取った神ご自身の御言葉でなければ通用しないのではないかと思う。私自身がそういう所に置かれている今、ますます聞いて納得できる説教というものへの評価が厳しくなっていると言える。

 

実際自分がここで語るとしたらどう語るだろうか、と考えた。私自身にも語れそうにないと思われた。そして夫ならここをどう語っただろうか、と考えた。

マルコによる福音書は、夫は札幌時代に語っているのだが、その頃はブログも始めていなかったので原稿も残っていない。

しかし若い頃から夫は、マルコによる福音書の1章1節に思い入れが強かった。ブログには、1章1節からの説教が二つ残っている。

 

それで、思った。マルコによる福音書はどこの箇所を読むにしても、1章1節に立ち戻って読むということなのではないか?と。

 

以下に、その説教の一つを抜粋する。

 この一番最初にまとめられ、いちばん短いマルコによる福音書は、そのイエス キリストの福音を伝えていくためにまとめられたものなのです。イエス キリストの十字架と復活をきちんと伝えるためにまとめられました。マタイやルカのように誕生の話もなく、少々物足りないような気がするかもしれません。しかし、イエス キリストを知り、その十字架と復活を理解するために欠かせないことをマルコによる福音書はまとめているのです。

 そして、イエス キリストを知る際に鍵となるのが「神の子」ということなのです。救い主キリストとして神が遣わしてくださったのは、ほかならぬご自身のひとり子であったことをこの福音書は証ししようとしています。天使が遣わされたり、新しい指導者が人の中から立てられたのではなく、わたしたちを救うために神の子が人となってこの世に来てくださった。そしてあろうことかその命まで懸けてくださった。

 神はわたしたちに対して本気でした。本気で愛してくださり、本気で救ってくださいました。神は代わりのないひとり子を遣わしてくださいました。イエスは神の栄光を惜しまず、そしてご自分の命さえも惜しまれませんでした。

 少し砕けた仕方で言うならば、「そんじょそこらのいい知らせとは訳が違う。神の子イエス キリストの福音だ。さあ、その福音を語り始めるからよく聞いてくれ」とこの福音書は最初の一文でもって語っているのです。

 

 今から語り始める、ここから始まる、だから「福音の初め」なのです。ですが、この「初め」というのはこれから始まるというだけでなく、この福音書全体を指しているのです。福音書に書いたこと全部、十字架と復活に至るイエス キリストのすべてによって良い知らせ、福音は始まった。それが今に至るまで続いているんだよ、ということを表しているのです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2018/01/03/173742

 

つまりマルコによる福音書は全体を通して、神の子であるイエス・キリスト、イエスが「神の子」であるということを伝えようとしている、ということなのだ。

だから、「そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」」と記されており、「「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」と記されているのである。

 

そんなことを考えていると、夫のブログの中に、マタイによる福音書の同じ記事について記された「聖書通読のために」を見つけた。

聖書通読のために75

エスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒瀆している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。(マタイによる福音書 9章 1~8節 新共同訳)

 

 一番疑問なのは、5節「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」である。

 断然「あなたの罪は赦される」の方が易しいと思う。それなら自分でも言える。しかしイエスは、この言葉が事実となるため十字架を負い、命を献げることを決意しておられる。当然わたしにはそんな決意はない。

 イエスの言葉は出来事となる。イエスはわたしたちの罪を赦し、救ってくださる。

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2018/09/14/115900

 

そうなのだ。「あなたの罪は赦される」というのは目に見えないから、言うのは簡単なのだ。

「起きて歩け」というのは、実際「起きて歩かなければ」そうならないというのがはっきり分かってしまうから私たちには難しく思えるのだが、「神の子」にとっては、それは簡単なことなのである。

むしろイエスは、私たちの罪が赦されるために、その命まで懸けてくださったのだ。

 

そう考えると、マルコ福音書に限らず、聖書全体にわたって、私たちの罪を贖うために来てくださった神の子イエス・キリストについてが記されていると言えるのである。

そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカによる福音書24:25~27)

 

ここまで辿り着いてようやく福音が伝わってくるように思われる。

そうだ!病が癒されることよりも罪が赦されることの方がどんなに大きなことか、と。

ここまで御言葉を聴き取って初めて、夫が病の床にあるということの中に、そういう事態の中に、主が共に居て下さるのだと信じられる。そう思える御言葉を聴きたいのだ。

このままで生きていけると信じられる御言葉を! 

 

私は、癒しは神のご計画のうちにあるものなのだと考える。神がこれは癒すと計画なさっているものは癒されるし、そうでないものは癒されないということがあるのだ、と私は思う。癒されない病の中に人智では計り知れない何らかの意義があるのかもしれないということを心の片隅に置いておきたいと思うのだ。

http://myrtus77.hatenablog.com/entry/20130918/p1 

 

私たちは癒されることの中に神を見ようとする。癒されることの中に、健康であることの中に、成功することの中に。しかし私たちは、罪の世にあって、キリストの十字架を仰ぎ見るのでなければ、神を見出すことは出来ない。

十字架上に留まられたキリストを見るのでなければ、神に出会うことは出来ない、と思う。

 

 

myrtus77.hatenablog.com