風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

行き場(居場所)がない! - ドストエフスキー『罪と罰』25

ここまでくれば、ラスコーリニコフの意識における「プレストゥプレーニエ」、人間の掟をふみ越える「新しい一歩」とは、たんに高利貸の老婆に対する殺人行為だけを意味したのではなく、より広範な社会的、哲学的意味、マルメラードフの言う「どこへも行き場のない」状況の中での反逆の一歩をも意味していたことが、おのずからあきらかになるだろう。(岩波文庫罪と罰 下』江川卓=文「解説」より)

 

「ふみ越え」とともに、『罪と罰』においては、この「行き場」という言葉が一つの鍵となっているように思われる。

 

「しかし、ほかにだれのところへも、どこへももう行き場がなかったら! だって、どんな人間にしたって、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんものな。なぜって、人間、いやでもどこかへ行かなくちゃならんときだってあるんですから! 私の一粒種の娘がはじめて黄色い鑑札(売春婦の鑑札)をもって出かけたときは、私もやっぱり出かけましたよ・・・・(岩波文庫罪と罰 上』p34)

 

というのも、どこへも行き場がなかったからなんで。おわかりですか、あなた、おわかりですか、この、もうどこへも行き場がないという意味が?いや! こいつはまだあなたにはおわかりじゃない・・・・(p39)

 

ラスコーリニコフに向かってマルメラードフが語っているのは、言葉の端々に登場する「行き場」がないということ、それが全てである、と言って良いのではないだろうか?

ところが、貧乏もどん底になったら、そうはいきません。貧乏のどん底に落ちた人間は、棒で追われるのじゃない、箒でもって人間社会から掃きだされる。(略)そこで酒場なんです!(略)それはそうと、もうひとつ、なに、ほんの好奇心からうかがうんだが、あなたはネワ川で、あすこの乾草舟で泊まったことがおありですかな?」(p31)

 

「なぜ勤めに出ないかって、あなた」マルメラードフは、まるでいまの質問の主もラスコーリニコフであったように、彼のほうだけを向いて答えた。「なぜ勤めに行かんかって? じゃ、こんな情けない暮らしをしておって、私が心を痛めんでおるとでもお思いですか? 一ヵ月まえ、レベジャートニコフさんが手ずから家内を打擲されたときにも、私は酔いくらって寝ておったわけだが、それで私が苦しまんかったとでもお思いですか? 失礼だが、学生さん、あなたは・・・・その・・・・まあ、言ってみれば、当てのない借金をたのみに行かれたことがおありですかな?」
「ありますよ・・・・でも、当てがないというのは?」
「要するに、まるでてんから当てがないんですわ。いくら頼んでもむだと、最初からわかっとるやつです。(略)」
「じゃ、なんのために出かけて行くんです?」ラスコーリニコフが口をはさんだ。
「しかし、ほかにだれのところへも、どこへももう行き場がなかったら! だって、どんな人間にしたって、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんものな。(p33~34)

 

すると、賢者や知者がおっしゃる。「主よ! この者たちをなにゆえに迎えられます?」すると、こういう仰せだ。「賢者たちよ、知者たちよ、わたしが彼らを迎えるのは、彼らのだれひとりとして、みずからそれに値すると思った者がないからじゃ・・・・」そう言われて、われわれに御手をのばされる・・・・われわれはその御手に口づけて・・・・おいおい泣いて・・・・なにもかも合点がいく! そのときにはすっかり合点がいく・・・・いや、みながわかってくれる・・・・カチェリーナも、家内もわかってくれる・・・・主よ、御国をきたらせたまえ!」(p54)

 

あなたは私のさすらいの日々を数えてくださいました。私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。(詩編56:9 聖書協会共同訳)

 

 

2009年に出版された『イエスの宗教』の第四章「あなたはどこにいるのか」で、八木誠一氏は、「居場所」について語っておられる。

 居場所がない人は不幸である。生活の安定も、こころの安定もない。居場所を失えば、錯乱状態にすらなる。イエス自身はどうだったのだろうか。「一人の律法学者が近寄って彼(イエス)に言った。先生、どこに行かれようとあなたに従ってまいります。イエスは、彼に言う。『狐には穴があり、鳥にはねぐらがある。しかし、人の子には枕するところもない』」(マタ八19~20、ルカ九57~58参照)。「人の子」は、この場合おそらく終末時に天から現れる救済者・審判者のことではなく、「人」あるいは「私」の意味であろう(前述のように、アラム語の「人の子」は「人」あるいは「私」を意味する)。(略)いずれにせよ、神の国を宣べ伝える人間は居場所を失う、それでもいいか、というのである。

 実際、イエスは公生涯のあいだ定住せずに巡回伝道をしていたようである。そして居場所のない人々のもとに行って、神の国を宣べ伝えた。

 

(略)

 

 こうしてイエスは「居場所のない人々」に神の国を宣教した。

 

(略)

 

しかしイエスの言葉から、われわれは以下のメッセージを読み取ることができる。それは、「君たちはこの世界に居場所を求めるけれども、不動の居場所はありえない、そのつど仮の居場所を見つけるだけだ。ほんとうの居場所は神の国にあり、そこに居場所をもつ者は、仮の居場所が神のはたらきが現実化する場所に転換されるのを見るだろう」というものである。(八木誠一=著『イエスの宗教』(岩波書店)より抜粋)

 

神の子であるイエスが、本来の居場所である天から、居場所を持たない私たちのところへと降って来てくださったのだ。そして、私たちの居場所を用意するために天へと昇られたのだ。

心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネによる福音書14:1~3 聖書協会共同訳)

 

 

 わたしたちの命の造り主なる神が語りかけておられます。「わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

 神はわたしたちの存在・命に責任を持ってくださいます。わたしたちは神さまのものなのです。神さまのものとして聖別されたのです。

 わたしたちが子どもの名前を呼ぶように、神もわたしたち一人ひとりの名を呼んでおられます。

 神はわたしたちを知っておられます。覚えておられます。だからわたしたちには居場所があるのです。神の御許にちゃんとあるのです。

 その神の御心をイエス キリストが成し遂げてくださいました。だから聖書は「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8:39)と告げているのです。(抜粋)(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/04/19/124848

 

 

讃美歌39

1 日くれて四方はくらく         2 いのちのくれちかづき

  わが魂はいとさびし、           世のいろかうつりゆく

  よる辺なき身のたよる           とこしえにかわらざる

  主よ、ともに宿りませ           主よ、ともに宿りませ

 

今日、「主の日の礼拝が中止となり淋しいです」という教会員からのハガキが届き、返事を書いていて、ここに、この讃美歌を載せたくなった。

この方は、もう何十年も日曜の礼拝と水曜の祈り会に出続けて来られた方なのだ。そして先々週、ご主人を主の元へと送られたばかりなのだった。どんなに淋しいことだろうか、と思う。

 

 

「天の住い」(豊中中央教会礼拝説教)

https://drive.google.com/file/d/1vthFIEuVX88IcD_byx7_lGm0YfaNbImB/view