マタイによる福音書2章13節から23節からの説教(抜粋)
神はヘロデの死後、ヨセフをガリラヤのナザレヘと導かれました。父ヘロデ同様残虐な王アルケラオがユダヤを治めていたからです。
このガリラヤという所は、イスラエルの北のはずれの地方で、神の民よりはむしろ異邦人との関係の方が強い地方です。そしてナザレという町は、旧約には名前が出てこない小さな町です。ですから、新約では「メシアはガリラヤから出るだろうか」(ヨハネ 7:41)だとか「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(ヨハネ 7:52)と言われていましたし、そのガリラヤ人の間でも「ナザレから、何の良いものが出ようか」と言われているような所でした。
ですから、23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉の意味は、イエスは回りの人から蔑まれる事になるだろう、という意味です。わたしたちは、自分たちが主と仰いでいるお方をもう一度よく見つめ直しましょう。真の王としてこの世に来られたのに、華々しくもなく、きらびやかでもなく、小さな町でひっそりとお生まれになった。生まれたばかりで憎しみを受け、命を狙われ、祖国を追われ他国へと逃げなければならない。民を救うために働かれたにも関わらず、理解されず、蔑まれる。そしてついには、犯罪人として十字架につけられ殺されてしまうお方であります。
けれども、このお方の生まれた時からの苦難がわたしたちの救いのためのものなのです。イエス キリストは、このような罪の憎しみや試みや蔑みが初めからあることを承知の上で、救い主としての業を成し遂げるためにこの世に来られたのです。わたしたちを一切の罪の重荷から救い出すために、自らその重荷をすべて負ってくださったのです。
だから、わたしたちはキリストの誕生を祝うのです。イエスに対して「誕生日、おめでとう」と言うのではなくて、「イエス様が生まれて、良かった」と言って、互いに喜びあい、互いに祝い合うのです。
どのような人間の罪があろうとも、決して見捨てず、何としても救おうとしてくださる神がいてくださるかぎり、わたしたちには希望があるのです。どのような悪や憎しみ、試みや蔑みがあろうとも、わたしたちの救いのために来てくださるイエス キリストがいてくださる限り、わたしたちは救いを見ることができるのです。神が語り、約束されたこと、神の御心は、必ず成し遂げられ、成就するのです。
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讃美歌114
2 今なおみつかい つばさをのべ
疲れしこの世を おおい守り
かなしむ都に なやむ鄙(ひな)に
慰めあたうる 歌をうたう
3 重荷を負いつつ 世の旅路に
悩めるひとびと かしらをあげ
栄えあるこの日を たたえ歌う
たのしきうた声 ききていこえ