風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

祈り「私たちの人生の小舟に・・」と、マルコによる福音書4:35~41からの説教

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコによる福音書4:35〜41)

  

父なる神様

あなたは、救い主を待ち望んでいた旧約の民にイエス・キリストをお遣わしになりました。

私たちは、直接この目でイエス様を見ることは出来ませんが、聖書を読むとき、私たちの人生の小舟の中にイエス様がいてくださり、風を叱り、嵐を静めて下さることを知ることができます。

嵐の中で慌てふためいて詰め寄る者をなお愛し、「まだ信じないのか」と叱って下さることを感謝します。

そうして本当にそのようにしていて下さることを覚えて、今、平安の中にいることが出来ていますことを心から感謝致します。

この祈りを、主 イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

  

エス・キリストは嵐を静めるだけでなく、嵐を起こすこともお出来になる御方だと思える。

弟子たちが、十字架上で死なれ復活して自分たちの目の前に現れたキリストを信じることが出来るように、嵐を起こし、それを鎮めるという奇跡をお見せになったのだと思えるのだ。

マルコの語り伝えるイエスの奇跡は、全て、「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1:1)を証しするためのものであった、と。

 

 

以下は、過去の夫の説教

 イエスガリラヤ湖畔で舟の上から大勢の人々に語られました。

 その日の夕方になって,イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。向こう岸というのは,ガリラヤ湖の東側です。ただし,そこは異邦人の土地でした。

 イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも,わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(1:38)と言って巡回しておられましたから,その異邦人の土地にも会うべき人がいたのでしょう。

 

 そこで,弟子たちは群衆を後に残し,イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。
しばらくすると,激しい突風が起こり,舟は波をかぶって,水浸しになるほどでした。

 ガリラヤ湖では突然嵐が起こりました。湖が周囲よりも低い所にあり,ヘルモン山からヨルダンの谷に風が吹き下ろす地形になっていたためでした。

 ガリラヤ湖はとても大きな湖です。聖書の地図を見ますと,死海ガリラヤ湖よりもはるかに大きいために小さく思えてしまいますが,一番広いところで南北20km,東西12kmもある大きな湖です。12kmというとここからJRの手稲駅の辺りです。

 どの辺りで突風に遭ったかははっきりしませんが,舟が沈んでしまってはとても助かりません。弟子たちは必死になって水をかき出し,何とかしようとしました。しかし,イエスは艫の方で枕をして眠っておられました。弟子たちはイエスを起こして,「先生,わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えました。

 

 マタイとルカの福音書は,既にでき上がっていたマルコによる福音書を参照してまとめられたと考えられていますが,マタイもルカもイエスを起こした際の言葉をマルコよりも優しい言葉に変えています。

 マタイは「主よ,助けてください。おぼれそうです」(8:25)ですし,ルカは「先生,先生,おぼれそうです」(8:24)となっています。マルコの怒鳴りつけるような言葉に抵抗を感じたのかもしれません。

 実際はマルコが書くような状況ではなかったかと思います。いつ舟が沈んでもおかしくないのです。それなのに何もしないで寝ているとはどういうことなのか。

 

 旧約の詩編にも,困難な状況の中で「主よ,なぜ助けてくださらないのか」と叫び訴える言葉がいくつも出てきます。

 弟子たちもいろいろですからもちろんマタイやルカの記すような気持ちで呼びかけた者もいたでしょうが,マルコが記すように「なぜ,こんなときに何もしないで寝てられるんだ」という者もいたことでしょう。

 弟子たちに起こされたイエスは立ち上がり,風を叱り,湖に「黙れ。静まれ」と言われました。すると,風はやみ,すっかり凪になったのです。そして,イエスは言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 

 弟子たちは信じられないものを見てしまいました。弟子たちはこれまで,イエスが悪霊に苦しむ人を癒されたのを見てきました。イエスは悪霊に「黙れ。この人から出ていけ。」と叱りつけて,悪霊を追い出されました(1:25)。それと同じように風を叱り,湖に「黙れ。静まれ」と言われると,その通りになるのです。

 弟子たちは非常に恐れて,「いったい,この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合いました。

 

 そばにいて,一緒に歩んでいても,イエスを捉え尽くせない。わたしたちの信仰よりもはるかに大きなお方。

 

 イエスに従うとき,わたしたちが考える平穏無事な人生があるのではありません。

 嵐に遭い,舟が沈みそうになり,「神はなぜ何もしないんだ」と叫び訴える。しかし,舟は沈まない。イエスが共におられるからです。

 イエスは他の場所におられるのではありません。嵐のただ中にあるときも,わたしと共にいてくださいます。

 

 イエス キリストは、インマヌエル=神は我々と共におられる、と呼ばれるお方です。

 

 イエスに従い,イエスと共に歩む限り,わたしたちは恐れる必要はありません。与えられた力でなせることをなせばよいのです。

 そして,主に祈り求めればいい。叫ばなければならないときは叫び訴えてよいのです。

 

 イエスは起き上がって御業をなされる。イエスは死者の中からでさえ起き上がり,救いの御業をなしてくださった御方です。

 

 イエスと共に歩み,イエスの御業を見る者は,信仰が日々新たにされる。「まだ信じないのか」というイエスの声に導かれて,信仰から信仰へと歩み行く。驚きは喜びに,喜びは讃美へと変わる。

 

 どのような嵐に遭っても,イエスはわたしたちと共におられ,わたしたちを救われます。そして,わたしたちを神の国へと導かれます。