分裂症の体験においてはこの非対称性がしばしば逆転し、自己と他者との主客の関係が転倒している。自己は主体であることをやめて、たんなる他者の客体になってしまう。(隠喩としての建築)
— 柄谷行人 (@karatani_kojin) 2019年6月8日
キリスト教がもたらしたのは、「主人」たることを放棄することによって「主人」(主体)たらんとする逆転である。(『日本近代文学の起源』告白という制度)
— 柄谷行人 (@karatani_kojin) 2019年5月28日
別の書物の中で語られたこの二つの言葉がつながるように思えた。
キリスト教信仰というのは、まさしく主人の座に神を置くことによって、神の前の自分という主体を取り戻す行為である。
統合失調(分裂症)においては、自己を主体として保つことが難しいのではないかと思う。
「主体であることをやめて、たんなる他者の客体になってしまう」統合失調の場合には、他者が替われば他者の客体である自己も簡単に入れ替わってしまう。つまり他者が固定されない限り自分自身を保つことが出来ず、自己を見失うことになる。
この意味で、統合失調気質には神が必須だと思える。
「クリスチャンになりたい、洗礼を受けたい」と言って教会に来たという人がいる。
自分にとって何が必要なのか、この人には分かっていたのだ。
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネによる福音書9:3)