風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

柄谷行人の非公式botから考えるキリスト教と統合失調型気質

 

 

別の書物の中で語られたこの二つの言葉がつながるように思えた。

 

キリスト教信仰というのは、まさしく主人の座に神を置くことによって、神の前の自分という主体を取り戻す行為である。

 

統合失調(分裂症)においては、自己を主体として保つことが難しいのではないかと思う。

「主体であることをやめて、たんなる他者の客体になってしまう」統合失調の場合には、他者が替われば他者の客体である自己も簡単に入れ替わってしまう。つまり他者が固定されない限り自分自身を保つことが出来ず、自己を見失うことになる。

この意味で、統合失調気質には神が必須だと思える。

 

「クリスチャンになりたい、洗礼を受けたい」と言って教会に来たという人がいる。

自分にとって何が必要なのか、この人には分かっていたのだ。

 

エスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネによる福音書9:3)