風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子45

葛原妙子の歌の中には「塩」に纏わる短歌が多いように思われる。第五歌集『原牛』では塩分濃度の高い死海を詠った歌もいくつか見られる。また、第七歌集『朱靈』では「塩」と「塩湖」とその周辺を歌にしている。

鬼子母のごとくやはらかき肉を食ふなれば僅かなる塩をわれは乞ひけり『鷹の井戸』
第八歌集『鷹の井戸』のこの歌はなかなかな印象を読み手に与える歌である。おとぎ話や深層心理学の中では母親が子を食べるというのは象徴的に表されることが多いが、聖書の中には以下のような箇所に母が子を煮炊きして喰らうという記事が出てくる。

彼らの敵と命を奪おうとする者が彼らを悩ますとき、その悩みと苦しみの中で、わたしは彼らに自分の息子や娘の肉を食らい、また互いに肉を食らうに至らせる。(エレミヤ書19:9)
憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。わたしの民の娘が打ち砕かれた日 それを自分の食糧としたのだ。(哀歌4:10)
自分が自分の子供を食べ、その肉を少しでも、この人々のだれにも与えようとはしないであろう。これは敵があなたのすべての町々を囲み、激しく攻め悩まして、何をもその人に残さないからである。(申命記28:55)

これらの個所に書かれている聖書の言葉は、神が、背きの民を他国をもって打たれる時に起こってくる状況を示している。神に背き罪に堕ちた状態が凄まじいものであることが分かる。これに対して、キリスト者は地の塩であることが求められる。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(マタイによる福音書5:13)
もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。(マルコによる福音書9:47~50)

卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら『朱靈』
この歌は、『朱靈』の最初の章の二首目に収められている。第七歌集『朱靈』は妙子が自己の罪と向き合った時期の歌集であると私は推定しているが、罪を自分のこととして捉え始めた妙子が塩の傍らにあって憩っているというのは象徴的であると言える。そしてその塩の入った壺はまろやかに陽に照らされているのである。同じ『朱靈』の中に次のような歌が収められている。

おそろしき中国の朱は拭ひたる朱はふたたび指に影なす『朱靈』
「葛原妙子34」でも言及したこの歌の「朱」とは「罪」を象徴していると思われる。そして、「指」である。「手」や「指」とは、罪を犯させるものである。「卓上に」の歌では、その「手」が「塩」の傍らで憩っているのである。「妙子の手」が傍らで憩っているこの「塩」は、キリスト者となられた三人の娘さん方のことであろうか。

卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら『朱靈』