風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

見るということー『白鳥の娘』より


子供を守る 守りたいですよね。

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前に書いた昔話の紹介文。

 『松谷みよ子の本8』(講談社)の中から「白鳥の娘」

 今回は、とても短くて美しい日本の昔話を紹介しましょう。『白鳥の娘』。
 吹雪の夜、足を痛めて道に迷った娘が訪ねて来る。身上の良い上の家では追い返すが、貧しい下の家のじいさまは粥を煮て食べさせ休ませる。「足痛むっていってたが」と思って眠った娘の足許をのぞいてみると、その足は人の足ではなく、白鳥になっていた。じいさまはびっくりするが、「そうかそうか、吹雪で白鳥、道に迷ったか」と言って、うすいふとんを上からかけてやって自分も目をつぶって横になる。翌朝、目をさますと娘の姿はもう消えていて、吹雪の晴れた明けがたの空に一羽の白鳥が輪をかいて飛び去っていった。

 このお話を読んで、私は聖書の中の姦淫の罪でイエスの前に女が引きたてられてきた場面を思い浮かべたのです。「姦淫の女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じておられますが、あなたはどうお考えになりますか」と詰め寄る律法学者達に、イエスはかがみ込み、指で地面に何か書きつづる姿勢を保たれます。

 見るという行為は「じろじろ見る」という言葉からも連想されるように、時に相手を不快にさせます。又、見るという行為は「見なす」という行為へとつながります。相手を「こいつは何々だ」と見なすのです。そして「こいつは自分たちとは違う」と見なせば、「見下す」「敵視する」という行為へとつながっていく場合もあります。この昔話の中で、じいさまは娘が白鳥に変わっていることに一瞬びっくりしますが、ふとんを掛けてやって「なあんも、見てねぇぞ」と言って、目をつぶります。人間である自分と白鳥は異なるものだと「見なす」ことを止めたのです。イエス・キリストは、しつこく問い続ける者達に向かって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、お答えになりました。

 精神科医高橋和巳氏は「人間理解の深い人というのは、共通性を探り当てている人である」(『心を知る技術』)と言っていますが、この昔話で言えば、それは自分と白鳥を同じ地平において見るということではないでしょうか。それは又、姦淫を犯した女と同じ罪を自分の中に見るということなのだと思います。


 私は、この『白鳥の娘』によって、「見ない」ということと、もう一つ「忘れる」ということについても考えさせられます。松本清張の『砂の器』で、主人公は自分の過去を抹殺するために昔世話になった男を殺害します。ただ、懐かしさで会いに来ただけの男を。けれど、恩を受けるということは、借り、負債(重荷)を負わされることでもあります。「三木謙一は立派な人物だった。その人がなぜ顔まで潰されるような悲惨な殺され方をされなければならないのか。人格者が人に恨みを買うというのは、こちらで気づかない別な理由があるのだろうか」事件を追っていく刑事のこの心の呟きが印象的です。

 白鳥の娘は最後に恩返しに現れたりはしません。ただ、「それからだ。下の家にはええことばかり、つづいたと」と記されただけで終わっています。じいさまは、その後の豊かさが自分のした善き業への報いだとは気付いていなかっただろうと思います。このところで私は、自分がした善き業を忘れることの尊さを思わされます。けれど、私たちは忘れても、全てのことをご存知の神様は、あなたは飢えた者に食べさせ、渇いた者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の者に着せ、病人を見舞い、獄にいる者を尋ねてくれたと言って下さるのです。


高橋和巳=著『心を知る技術』(ちくま文庫