風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ハンナ・アーレントの「他人を見聞きすること」と「他人から見聞きされること」


秘密保護法案:修正協議すり寄る「みんなの党」ほくそ笑む「与党」  この法案が通れば、他人を見聞きすることも他人から見聞きされることも奪われる!

こんなウソが堂々とまかり通る日本! 自民党は約束を守らなかった!

今は買っていないのだが、創刊の時からしばらくずっと購入していた週刊金曜日が創刊20周年を迎えたというので夫が久しぶりに買ってきた。その中に、「現在を生き抜くために、読む!」としてハンナ・アーレントについての八柏龍紀さんという歴史哲学者の方の文章が掲載されていた。「絶望に覆われた闇夜で到達した『哲学』」という副題の下に、ハンナ・アーレント第二次世界大戦中にナチス強制収容所から脱出、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人で、自身のその苛烈で酷薄な体験から思考を深めた哲学者だ。『いま、アーレントを読む意味』を考えてみた。」とまとめられている。

私がこの中で最初に注目したのは次のような箇所だった。引用してみる。

 アーレントは言う。こうして人びとは「他人を見聞きすることを奪われ、他人から見聞きされることを奪われる」。いわば「共通世界」から完全に剥離された状態にあると。
 したがってアーレントは明確に語る。いわば、人びとが人間性をもつということは、まず「他人によって見られ聞かれることから生ずるレアリティ」を奪われていないこと。


昨日、ブログに掲載した見るということー『白鳥の娘』よりでも書いたように、私の感覚では、「見る・見られる」ということはあまり良いイメージではなかったのである。ところがアーレントは、「人間性をもつ」ということの第一番に「他人を見聞きすること」と「他人から見聞きされること」をあげているのだ。この言葉には目を瞠らされる思いがした。

上記の続きを引用しよう。

さらに「物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との“客観的”関係」が奪われていないこと。加えて「生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性」を奪われていないこと。
 言い換えるなら、人びとの間に置かれた“テーブル”のような「共通世界」の意味を認識し、他者とともにそこに存在し、持続的に対話する人間の「行動」の意味を説くのである。
 そのうえで、さらにその「共通世界」のイメージを明らかにすれば、つぎのようなことになる。
「もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画したり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びととお互い異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう」(前掲『人間の条件』)
 いわば人間は、こうした他者性と差異性が作り出す通時性と共時性をともなう「共通世界」のなかに存在しているのであって、もし現代社会で、これらが抑圧や暴力で破壊されるか喪失するかした場合、容易に第二、第三の「アウシュビッツ」が起こりうるとする。(『週刊金曜日966号』中、「ハンナ・アーレント」より抜粋引用)


ここまで読んで私は、ヒトラーが台頭したドイツで社会主義者ユダヤ人を救援したために教授職を追われてアメリカに亡命した神学者パウルティリッヒ「同一性と差異性の同一性」を思い浮かべた。それで、大島末男=著『ティリッヒを又ちらちら捲ってみたのだった。すると、そこにアーレントが登場していた。以下、引用。

 このような社会的名声を楽しむ一方、ティリッヒは自分自身のために静かな時間をもつことに努め、特に当時のシカゴ大学ではハンナ=アレントとの交友を最も大切にしていた。アレントは、ハイデガーヤスパースの許で学んだユダヤ人女性であったが、政治学者としてシカゴ大学の看板教授の一人でもあった。毎週一度、教員食堂のクアドラアングル・クラブで、午後一時半頃、他の教授たちが引き上げた後の静まりかえった部屋の窓際の席で食事をしながら歓談している二人をよく見かけた。アレントは美しい老婦人であったが、声は男のように太かった。(大島末男=著『ティリッヒ』(清水書院)より引用)

私は哲学科の学生でも神学科の学生でもなかったのでアーレントティリッヒも学んだことはまるでないのだが、若い頃にその名を知ってずっと胸に覚えて来たティリッヒが最近注目し始めたアーレントとこのように親しく交流していたことを知って胸がふるえるような喜びを感じたのだった。

さて、「現在(いま)を生き抜くために、読む!」アーレントの思想とはどのようなものであろうか。後半部分を引用しよう。

 ならば、その現在にあって、わたしたちは、いかなる思想で、これと切り結べばいいのか。アーレントは、そのヒントとして「許しと約束」における「他者性」の意味を説く。
 要約すれば、人は誰もが自分自身を許しても、意味をもたない。許しは他者の許しで成り立つ。一方で、人は自分自身だけで約束を取り交わすこともできない。つまり独居や孤立の中で行われる許しと約束は、ともにリアリティを欠き、一人芝居の役割以上のものを意味しない。不可逆性の苦境から抜け出すための救済は、「許しの能力」であり、未来の混沌と不確かさに対しての救済策は、約束をし、約束を守る能力にある。そして、その「許しと約束」は「公的空間」、いわばアーレントの言う「共通世界」で取り交わされる言葉をもってでしか、確認する術はない。
(2013年11月1日発売『週刊金曜日966号』中、八柏龍紀ハンナ・アーレント」より抜粋引用)


ここに記されている「許し」、「約束」、「言葉」は、聖書の中では最も重要な言葉としていたるところに記されているものである。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ福音書1:1~3)

しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。(詩編130:4)


新・旧約聖書の「約」は、「約束」の「約」、「契約」の「約」である。「約束」というのは「信頼」と深く関わった事柄である。聖書の中で、神を「信じる」という「信仰」が成り立つかどうかというのは、神が私達人間と結んでくださった「約束」にかかっている。

この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。(ローマ人への手紙1:2~3)

偽りのない神が永遠の昔に約束された〜(テトスへの手紙1:2)

神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。(ローマの信徒への手紙4:21)

わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。(ペテロの第二の手紙3:13)

ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。(ヘブル人への手紙8:6)


現在を生き抜くために読むべきものの全てが聖書の中に記されている、と私は思った。


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