風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

内田樹=著『修業論』から信仰を考える


関東の広い範囲で震度4の地震 皆様、ご無事だったでしょうか?

若い頃から武術に関心があって太極拳を細々と続けている夫が、内田樹氏の『修業論』を買って来た。夫が買って来たのでも、私に興味があれば先に読むというのが我が家の習わしなので、目次を見て、読みたいと思うところを先に読ませて貰った。だいたい私は本を買ってきても最初から順番に読んだためしがない。それでこの『修業論』も、第5章「『居着き』からの解放」の「『弱さ』を作り出すもの」を先ず読んだ。そして次の「『科学的』と『科学主義的』の違い」を読んで、驚いた。引用してみる。

 世界にはキリスト教徒が20億人いる。彼らは『聖書』の教えを信じている。
「マタイによる福音書」には、「イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。」という記述がある(14章25節)。そのとき「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ。』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。」(14章26節)と書かれている。
 世界の20億人のキリスト教の信者たちは、この聖句の内容を信じているのか、いないのか、私はそれが知りたい。
 それは「比喩的な表現にすぎない」と言う人がいる。「使徒たちが効果的な布教のために作った物語にすぎない」と言う人もいる。イエスが実際に空中浮揚をしたと思っている人はむしろ少数派であろう。
 だが、聖典のうち、自分が真実であると判定した箇所だけを信じ、自分が嘘だと思う箇所は読み飛ばす権利が自分にあると思っているものを、「信仰を持つ人」と呼ぶことはむずかしいと私は思う。
 信仰を持つというのは「そういう態度」のことではない。キリスト教徒であれば、イエスが湖の上を渡ったことも、死者を蘇らせたことも、墓から出て来た悪霊たちを豚に憑依させたことも、すべて「信じる」と宣言するところから、その信仰を始めるべきではあるまいか。
                      (内田樹=著『修業論』(光文社新書)より引用)

この文章を読んで私が驚いたのは、キリスト教の信仰を持っておられない方から信仰のあり方を的確に指摘されたからである。私自身も間違ったことを口にしているかもしれないが、確かに、キリスト教徒だという方から、本当に信じているのかと思えるほど自分の都合の良いように聖書をねじ曲げて解釈したものを聞かされることがあるのである。内田氏はこの後に次のように続けておられる。

 そうではなく、「信じる」とは、・・。
 自分がものごとを知覚し、受容し、認識しているときに用いている知的な枠組みの射程は限定的なものであり、「私の知的枠組みを超越するもの」が存在する蓋然性は高いと認めることである。
 私は、このような自己の知的射程の有限性の覚知のことを、「科学的」と呼ぶべきだろうと思っている。
 だが、私たちの社会では、この言葉はそのような意味では使われていない。むしろ、計画可能、数値化可能な現象だけを扱う自己抑制のことを、「科学的」と呼ぶことが習慣化している。
 だが、先端科学の研究者たちは、手持ちの計測機器や既知のスキームでは考量不可能の現象に惹きつけられ、その現象の背後にどのような隠された法則性があるのかを発見しようとする。科学史が教える限り、「科学的」というのはこのような前のめりの態度を言うのであり、今ある計測方法で考量できないものは「存在しない」と決めつける退嬰的態度のことは、むしろ「科学主義的」と呼ぶべきだろう。(内田樹=著『修業論』(光文社新書)より引用)

ここに至って、長く問われ続けてきた「科学」と「信仰」の問題が鮮やかに解決されている、と私は思った。

それにしても凄いなぁと思う。八木誠一氏も、私が20代の初めに読んだ『キリストとイエス』(講談社現代新書を書かれた時点では信仰を持っておられなかったと理解しているが、信仰を持っておられない方の書かれたものによって私は信仰を強められたのである。全く驚くほかない。