風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

洗足の木曜日

主によりて足洗はるる春の宵

春塵の足おづおづとさし出だし


過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
ヨハネ福音書13:1〜9)


エスのことを三度知らないと言う前のペテロは何でも自分で出来ると思っているようなところがあって、「弱さを自覚していない人間ほど鼻持ちならないものはない」と、私などはペテロの記事を読むたび思ってしまうのだが、ここのところを読むとペテロの可愛げが感じられて思わず笑ってしまう。ペテロという人は愛すべき人物だったに違いないと思わされる。

リフレクソロジーアロマセラピーが流行りはじめて、フットサロンで短時間、足だけをケアしてもらう人も増えているのではないだろうか。良い香りのオイルを塗ってもらうだけでも気持ちの良いものだが、春の宵に実際にキリストに足を洗ってもらったらどんな心地がするのだろうと、ふと思ってしまった。たぶん私も最初はちょっと抵抗するだろうな・・。

それにしてもこの聖書の記事、弟子の足を洗うイエスの手順が事細かに書かれていて、次々と弟子達の足を洗っていくイエスの姿が立ち現れてくるようだ。手ぬぐいを腰に巻くという動作に臨場感があふれていて、私たちと同じく生身の人間としてこの世に生きたイエスを鮮やかに思わされる。

そして、ここのところの聖書を続けて読んでいくと、あのユダもイエスに足を洗ってもらったことが分かる。