感動が胸に拡がるということだ。
あなたが最も幸せなときには、この書は、何の価もないものかもしれません。けれども、あなたが不幸や病気や、心の傷つけられているときにこの書はあなたのものであります。私は平凡なひとりの女として、光明なく、おぼつかなく、悲しみ多く半生を歩んできました。あなたの、最もま近くに、どこにもいる女のひとりであります。悲しみには涙し、よろこびには心をひらいて微笑し、死を敵とし、友として歩んで来ました。この集はその折々の心のすがたを集めたもので、地上のどんな花よりも香りなく、又どの季節の風よりも力ないものであります。
私は十五年の病歴の中で、足掛五年のあいだ、床の上にすわることさえ出来ないでくらしました。僅かに、顔を左にむけ、又右にむけたりして、自分の上にうつりゆく境涯をながめたのみであります。その生活の中にして、悲哀は、死よりも苦悩よりも、もっと人生に於て恐ろしいものであるのを知りました。
私は、死については、いつも用意をしてくらしていました。けれども悲哀の中を、いささかも心を乱さず生きてゆける自信はなかったのであります。私にとっては、いのちをすてないということは、一つの行でありました。
そして、その中で、かっきりと、頭を上げて生きようと思い定めたとき、はじめて私の人生に光りがさしはじめたのであります。ああ、私は忘れません、生命の尊厳を知った日を。私は、忘れません、はじめて、生きる決心をした日のことを。これは、秋の深い頃で夢のように白芙蓉の花が咲いていましたが、きょうのように、静かな夕ぐれでありました。その花の中のただ一つが、蕾のまま折れていたのをさえ、はっきりと思い出します。
若き私の友よ、もしもあなたが、肉親の心や、友人の思いや、朝の霧にも、夕ぐれの木立の色にも、心のいたむ人であったならば、あなたはこの内なる自分の純潔を、恥じてはなりません。これはあなたをこの人生に、かぐわしく、又、かけがえなく生かしてゆく一つのまことであります。まことは、しばしば傷つき、いたみつつ、深く人生の悲哀を知るものであります。悲哀を知って人生を生きることは、涙を知らない深い不幸にくらべれば、どんなに、まさるものでありましょう。
(略)
いま、夕ぐれの薄明の中に、私の庭には、木犀の花がさいて、花の終らんとするひとときを、静かに、香っています。(『静かなる夜明け 竹内てるよ詩文集』「あとがき」より)