詩編とイザヤ書には、神を農夫にたとえる記述がさらに多くあります。
(中略)
ルカによる福音書13章6~9節にあるイエスのたとえ話には、やはり旧約聖書でイスラエルを表すいちじくの木が出てきます。この「実のならないいちじくの木」のたとえによって、神が恵み深い農夫であられることを私たちは思い起こします。(『神の庭のように』)
この本の著者は、米国長老教会の牧師であり、園芸家である。
聖書の中には植物にまつわる記述が多くある。植物を育てるという行為は、神の御業への参与に他ならない、と思えるほどである。神は世界を創造され、あらゆる植物、あらゆる生き物を創造され、それらを治めておられる。
ある時、前任者が残して行かれたオオタニワタリの一株を日光の良く当たる場所に置いて枯らしてしまった。オオタニワタリは、山や森の中の樹木や岩に自生する植物なのだ。つまり直射日光に弱いのである。私の無知の故に枯らしてしまったのだった。
また、ある時、牧師館の庭に生えてきた酔芙蓉についた毛虫を割り箸で摘んでアルコール漬けにして皆殺しにした後、ふと、気づいた。芙蓉は毛虫に葉を食ませて代わりに受粉を手伝って貰っていたのだ、と。つまり共生していたのだ。神様がお造りになった世界には何一つ無駄なものはないのだ、と了解した瞬間だった。
私たちは、庭の花を愛で、野菜を収穫するためには虫も殺さなくてはならない。草も毟らなければならない。けれどその時、私たちの意図する事が神の御心とは違っているということを、はっきりと自覚していなくてはならないと思う。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。(ヨハネによる福音書15:1~2)
ヨハネ福音書にもこのように記されているように、園芸作業の中でも、剪定ほど神の御業そのものだと思えるものはない、と思う。
剪定をするためには、剪定対象について良く理解していなくてはならない。何のために剪定するのか、どこを切り落とすのか、それらを分かっていなければ出来ない作業である。
信仰の剪定は神にしかできない業だと言えよう。
剪定されるべき枝は、それぞれに固有のものと共通のものがあると思う。剪定されるべき共通のものの第一番は、「親」であろう。「親」というのは、尊敬の対象であっても、あるいは、もっと愛して育てて欲しかったと文句を言いたい相手であっても、一度切り捨てられなくてはならない。イエスも、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」と語っておられる。私たちは先ず、「親」を剪定されて、新たに神にある対象として今度は親を背負うのである。