風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

君と分かてり春の孤独を


歌ってる声をわたしは聴いている 君と分かてり春の孤独を


 治りかけというのはとても大切な時期です。…。保護室から出てみんなのなかで生活をしはじめたときの患者さんはーこのことは忘れられがちなのですがー非常にさびしい。…。ただし、そのときのさびしさというのはいわば人間的な孤独感であって、共感できます。
 このときに支える。少なくとも「ひどくさびしいときがある」ということを知っているだけでずいぶん違います。このときはほんとうに孤独です。むしろ幻覚や妄想というのは、感覚をわずらわせてその孤独を覆い隠していることが多いのです。
 これはなんべん言っても言い足りないぐらい重要なことですね。…。身体病でも、チューブが抜かれ、カテーテルもなくなり、看護師の足が遠ざかり、深夜の廊下を伝い歩きしながら便所に行き来するときのさびしさは人に語りにくいものです。回復までの長い道のりを考えて、ため息をついたりします。
(中略)
 要するに、回復初期は忘れられてはいけないのです。しかし、これがいかに人間の性質に逆らうことでしょう。とても努力を要します。このあいだフランスで暴動がありましたが、もう新聞にのらなくなっているでしょう。…。
 われわれは嫌なことは覚えていたくないわけです。…。だからわれわれがこの時期の重要性というものを認識すれば、それだけでも大きいことだと私は思っています。(中井久夫=著『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院)より)


生きていくというのは本当に淋しく、孤独なものだと思う。生きるというのは、誰かに代わってもらうことのできない事柄だ。自分の生は自分で生きなければならない。苦しみの中で生きるというのは、どれほど孤独なことだろうと思う。そして、苦しんでいる者の傍らにいて、それをどうにもしてやることの出来ないときも、生きる孤独を噛みしめるものだと思う。


冬の硝子冴ゆるさみしき あらぬかたに幻聴きこゆる人を抱きゐて 葛原妙子『原牛』
石の窓閉ざしたり いちにんの窓を怖るる病者のため
いかなる恐怖は生(あ)るる風の日の窓より卓布の赤き枡目より