風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

梨木香歩=作『裏庭』(新潮文庫)


● 半分あきらめて生きる
いずれそのような重大な責務を担うことになる子供たちは、たぶん今の学校教育の場ではあまり「ぱっとしない」のだろうと思う。「これを勉強するといいことがある」というタイプの利益誘導にさっぱり反応せず、「グローバル人材育成」戦略にも乗らず、「英語ができる日本人」にもなりたがる様子もなく、遠い眼をして物思いに耽っている。彼らはたしかに何かを「あきらめている」のだが、それは地平線の遠くに「どんなことがあっても、あきらめてはいけないもの」を望見しているからである。たぶんそうだと思う。(リンク記事より抜粋引用)


『裏庭』梨木香歩=作(新潮文庫
梨木氏の『裏庭』については前々から書きたいと思いながら書けないでいたのだが、上にリンクした記事を拝見して、部分的にほんの少しだけ書いてみようと思ったのだった。

『裏庭』の主人公は照美という少女だが、もう一人、裏の主人公とも言うべき人物がいる。この『裏庭』の舞台となるバーンズ屋敷に、戦前、住んでいたレイチェル・バーンズである。

人には大きく分けると二通りのタイプがあるようだ。一方のタイプは実質的な活動にどんどん取り組んでいくタイプ。もう一方は、「死とは何か、生きるとは何か、愛するとは何か、人間とは・・」といった根源的な事柄が解決しなければ生きていけないタイプ。私は完全に後者のタイプだった。自分の将来に崇高な目標を立ててそれに向かってまっしぐらに突き進むことなど出来ないタイプである。だから、受験勉強でも挫折した。愛とは何かはっきりしなければ愛して生きる人生に踏み出すことも出来ない、そういうタイプなのである。

けれど、そういったタイプはあまりそこにのめり込んでしまうと現実の社会では生きて行くことができない。レイチェル・バーンズの妹レベッカはこちらのタイプの人間として描かれ、そして若くして亡くなる。

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 戦争が終わり、敗戦した日本の悲惨な状況が伝えられるようになって、皆胸をいためた。
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「私達は−私とレベッカは、とてもつらかったの。愛する人たちがいる国と敵国同士になってしまったことが。特にレベッカにはつらかったでしょう。あなたが友人の日本人と戦う可能性があったのだから。普通の精神状態を保てというのが無理な話だったわ。それこそ大きな竜が、世界中を支配して、荒れ狂っていたような時代だった・・・」(『裏庭』より)<<


けれど人は、どこかで生と死に向き合わなくてはならない。自分の人生を振り返らなくてはならない時が訪れるのだ。

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 レイチェルばあさんの父親は、成功した貿易商だった。
 レイチェルばあさんは結婚こそしなかったが、その父親の遺産もあって、孤児を三十八人も(一度にではないが)ひきとり、養子にしてマーサと二人で育て上げた。それだけではなく、この地方初の女市長として政治の場にも活躍した。子どもたちはみな、この偉大なかあさんを誇りにしてきたものだ。
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−あれから、もう五十年近くたってしまった。・・。
−本当に忙しかった、この四十年。私は仕事をした。実の子どもではないけれど、多くの子どもたちも育て上げた。人の何倍も働いたつもりだ。しかし、天に召された後、一体何が私の後に残るのだろうか・・・
−何だか気が滅入ってくる。昨日久しぶりでたくさんの人を接待したので疲れたのだろうか。年をとった。(『裏庭』より)<<


そしてこの『裏庭』というタイトルに象徴される人物は、レイチェル・バーンズの家政婦のマーサであろうと思われる。

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「庭のことはすべてマーサにきいてくださいな。私は花の名前もろくにおぼえられないんだから。実際、この庭は彼女の作品なんです」
 レイチェルばあさんは上機嫌でいった。・・。
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 ガーデンオープンというのは、丹精された個人の庭を、有料で一般公開するイベントのことだ。その収益は慈善事業に寄付されることになっている。
 レイチェルばあさんの屋敷では、家政婦のマーサが、年に一度の今日のこの日のために、どれだけ心を砕いてきたことかしれない。パーティ慣れしている元市長のレイチェルばあさんには、大勢の人間と接することは何でもなかったが、堅実で表に出ることの好きではないマーサにとっては、気の遠くなるような晴れの舞台だ。

(中、大幅に略)

「養子たちとはいえ、あなたと私はいい家庭(ホーム)をつくってきましたよね」
「日本ではねぇ、マーサ。家庭って、家の庭って書くんだよ。フラット暮しの庭のない家でも、日本の家庭はそれぞれ、その名の中に庭を持っている。さしずめ、その家の主婦が庭師ってとこかねぇ」
「なるほどねぇ・・・。庭は植物の一つ一つが造る、生活は家族の一人一人が造るってことですかねぇ。・・」
 マーサはレイチェルの思った通りの反応をした。
「ねぇ、そうだろう、そういう、国なんだよ」
「レイチェル、あなたは本当に私の扱いを心得ていますね」
 マーサは電話の向こうで力が抜けたように笑った。その笑いをきいて、レイチェルは自分の勝ちの近いことを知った。もう一押しだ。
「そっちの屋敷はしばらくルースたちに任せて、こっちへ来てくれないかい?私もあんたに倣って庭作りを始めようかと思うんだよ。実は、ある知り合いの女の子に感化されてね、この庭を子どもたちのために残そうと思うんだよ」
「どこぞに寄付しようっていうんですか。どうなるかわかったもんじゃありませんよ。ちゃんと見届けないと」
「現状のまま残すってことで、委託しようと思ってるんだけどね。ここまでこの土地に根付いてしまった屋敷だもの。私の死後も子どもたちに開放するつもりだよ」
「オープンってのはどうでしょうかねぇ・・・。むしろ、照美のような子どもが、こっそり忍び込むために残しておくのがいいと思いますけどねぇ」
「まあ、その相談はともかく、何しろ今はここの庭は荒れ果てていて・・・。手を入れなければならないんだよ。よかったら、あんたにここの庭を任せて、私は『裏庭』を・・・」
 しまった、とレイチェルが口を抑えたのと、マーサが(電話の向こうでおそらく)血相を変えて遮ったのはほとんど同時だった。
「レイチェル・バーンズ!私があれほど『裏庭(バック・ヤード)』って言葉を使わないでくれっていったのを忘れたんですか。『前庭』なんて、ただの玄関に過ぎないんです。『裏庭』こそが生活の営みの根源なんですからね、きちんと『庭(ガーデン)』と呼んで下さい」
「マーサ、あんたはまったくいやになるぐらいいつでも正しいのね」
 レイチェルはため息をついた。
                 (梨木香歩=作『裏庭』(新潮文庫)より)<<


実際の庭作りは上手くいっていないのだけれど、私も家庭の主婦という立ち処を与えられて、庭師となった。