五味太郎という絵本作家の言葉への感性は素晴らしいと常日頃思っているのだけれど、その五味太郎氏にはクリスマスに相応しい絵本が何冊かある。その中の一冊を今年のクリスマスの絵本にしよう。
『もみのき そのみを かざりなさい』(文化出版局)。
絵本作家に対して言うのも何だけれど、この絵本の色使いも素晴らしいと思う。絵そのものはもちろんなんだけど、表紙を開いた見返しの部分の紙の色が深い深い緑になっていて、クリスマスの常緑樹に結びついている。そこをまた捲ると、今度は一枚目の絵が描かれているのだが、言葉はなく、深いブルーの色だけの絵なのである。クリスマスの夜かと思う。
そして次のページには、その深いブルーの中に星が描かれていて、「ほし めざめなさい」と書かれている。このページで、創世記の第四日、神が言によって星を造られたのを思い浮かべる。「星」も「言(ことば)」も、クリスマスと御子イエス・キリストに深く関わっている。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。・・。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(ヨハネによる福音書1:1~5、9、14)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(マタイによる福音書2:1~2、9~10)
わたし、イエスは・・。わたしは、・・輝く明けの明星である。(ヨハネの黙示録22:16)
あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。(ペテロの第二の手紙1:19)
この後は、「ふね とびなさい」「さめ わすれなさい」「みち こころみなさい」と続いていき、五味太郎氏の感性の世界が言葉と絵によってどんどんと広がっていく。
「はな おしゃべりを やめなさい」・・「いえ たびにでなさい」・・・・。
「さく やすみなさい」
これは、柵が休んで、解き放たれるイメージだ。
私が一番好きなのはこれ、「ねこ いいかげんにしなさい」
それからこれもいい。「くつした まちなさい」
だんだんクリスマスらしくなってきた。
途中にあった「みち こころみなさい」というのが分からないと言った人がいた。これは道に向かって試みなさいと命じているのではないのだと思う。「みち」という言葉から連想された言葉が「こころみなさい」という言葉だったのだと考える。「道」というとイエス・キリストである。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ福音書14:6)
彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる(ヘブル人への手紙10:20)
すると、これは、「イエスに従っていく道を、試みに行ってみなさい」と言っているように思える。深読みし過ぎだろうか。私の悪い癖である。
そして、「もみのき そのみを かざりなさい」ーこれはつまり、
主イエス・キリストを身にまといなさい。(ローマの信徒への手紙13:14)であり、
わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。(イザヤ書61:10)である。
この絵本の最後は、「こども いのりなさい」の次頁に眠っている子どもが描かれて「あした ほがらかに めざめなさい」と記されている。そして最後のページは明るいグリーンの色だけを塗った絵で終わる。ほんとうにクリスマスにぴったりの素晴らしい絵本だと思う。