風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「愛する」とは・・

「愛する」とはどういうことだろうかと、20代の初めにずっと考えていた。

『愛について』『愛をめぐる随想』『愛の試み』・・。その中で、今に至るまで私の愛についての考えの根底にあって支えているのは、椎名麟三「人は、だれかをホントウに愛することも、だれかからもホントウに愛されることもできない」という言葉である。椎名麟三の軌跡をたどって私もそこに行き着いたのだ。けれど椎名はその後、人間に限界があることをこそ喜ぼうと言って、「区切り一ぱいに、私たちは、私たちの愛でみたそう」(『愛について』)と言う。しかしここでは、「愛する」とはどういうことかという問いへの答は語られていない。

「愛する」ことの定義となって今に至るまで私の行動を支えているのは、八木誠一氏『キリストとイエスの中でとらえられたイエスの思想である。「愛の対象は、今、ここで私の目の前にいる、一人の具体的人間なのである」「今・ここで・そのつど私と出会うひとりひとりの人間が、それが誰であろうと、愛のかかわりの中にある。よしんばそれが敵であろうと、隣人は私の愛の相手なのであり、その訴えを聞く耳と、その言葉に動かされる心を持たなくてはならない」愛するとは、「一般的な善をより多く行うということ」ではなく、「今、ここで出会っている、この人への集中である」(八木誠一=著『キリストとイエス』(講談社現代新書))

あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エフェソの信徒への手紙3:18~19)
エスは、ひとりひとりの人間に向かい合って出会われる。イエスは、目の前の一人の人を全力をあげて理解しようとされる。そしてイエスは、私たちひとりひとりを完全に知っておられ、私たちひとりひとりに本当に必要なものを差し出そうとしてくださる。

人が人を完全に理解することなど出来ない、と言う。「そうだ!」と思う。だから私は様々な知識を蓄えようとする。目の前の人を理解するために・・。目の前にいる人が本当に必要としているものを差し出せるように・・。

自閉症だったわたしへ』という本がある。この原題は『NOBODY NOWHERE』である。これは精神分裂症(統合失調症)と診断された著者ドナ・ウィリアムズが、「自閉症」へと辿り着く過程を記した書物である。邦訳には本当の自分を見出した著者の驚愕と哀歓が端的に表されている。「これこそ、捜し続けてきた答えなのではないか。あるいは、その答えにたどりつく最初の一歩なのではないか。わたしは自閉症についての本を捜した。読み進むにつれて、わたしの中には、やっと見つけたという気持ちと、怒りのような気持ちとが、ない交ぜになってこみ上げてきた」(ドナ・ウィリアム=著『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫))

私にとって、知識は愛するための武器だ。罪のこの世にあって武器も持たずに誰が愛することなど出来るだろうか。

しかし、蓄えた知識が全く役に立たない場合がある、必死の状態でかき集めて差し出した情報が拒絶されることも、あるのだ・・。