風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

癒しについて御言葉から聴いて・・

その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。(ルカによる福音書10:9)

「その町にいる病人を癒し、神の国は近づいたと言いなさい」、そのように命じられております。
病める者を癒すというのはキリストがなされた業の大切なひとつであります。そしてその権威が遣わされる弟子たちにも委ねられていきました。
教会の歩みの中では、このキリストがなさったような奇跡が起こらない時代になってきた時に、今度は、病院を建てる、あるいは介護の必要な人を受け入れて共に生きるという、そういう医療や介護といったことを自分達の信仰の大切な業として行ってまいりました。
古代において、この病気の理由が分からないような時代に、病気を抱えている者は人々の交わりから遠ざけられ孤独の中に置かれてしまうことが多くありました。けれども、神の民の交わりはそのような罪をもたらした悲しみを越える、それを証する。病があるから一緒にいられないというのではなくて、それを越えて共にある、共に救いの恵みを分かち合っていく、そういう風な神の民のあり方、それが福音を伝える者達に委ねられていったわけであります。
そして述べ伝えるべきこのメッセージが、「神の国はあなたがたに近づいた」ということでした。



上記は、私に、娘のアトピーを治してみせると思わせた礼拝説教の抜粋である。
けれど、一方で、病が癒されるかどうかについては気をつけなければいけない点があると考える。つまり癒しの業がキリストから委ねられた業であるから、癒してみせる、治してみせる、と思うのはいい。けれど病が癒されていかないときに、自分の信仰が(あるいは癒される側の信仰が)足りないせいだと思ってはならない、ということだ。

パウロも、肉体の棘を取り去ってくださいと神に三度も祈ったが、取り除かれることはなかった(Ⅱコリント12)、と聖書は記している。

私は、癒しは神のご計画のうちにあるものなのだと考える。神がこれは癒すと計画なさっているものは癒されるし、そうでないものは癒されないということがあるのだ、と私は思う。癒されない病の中に人智では計り知れない何らかの意義があるのかもしれないということを心の片隅に置いておきたいと思うのだ。

だが、苦しんでいる者の傍にいて、その苦しみを軽くしてやりたいと思うのは自然な心の動きであると思う。


以下は、キャシー・ブラック=著『癒しの説教学 障害者と相互依存の神学』(教文館の「はじめに」より抜粋引用したもの。

 「癒し」という言葉は、数世紀にわたって様々な宗教的共同体において様々な意味を与えられてきた複雑な言葉である。聖書の時代から現在まで、(治癒を意味する)癒しは奇跡の証拠として引用されてきた。新約聖書の時代の人々は、これらの治癒をもたらす癒しの奇跡を、イエスの力が神に由来するものである確かで確実な証拠だと考えていた。
 今日、われわれは「癒し」という言葉を聞いてしばしば困惑を覚える。われわれは、苦難を覚えている人々の人生に癒しをもたらしてくれる神の力を確証したいと願っているが、治癒だけに焦点をおき、他人の苦難を自分たちの力を示し、利益を上げるための道具と考えているような信仰治療師たちとは関係を持ちたくないと願ってもいる。一方で、癒しを通じた伝道は、その始まりから教会活動の一部であった。人間がいるところではどこでも、様々なレベルの苦難があり、そして苦難のあるところには、癒しの必要性があることをわれわれは知っている。しかし、一体「癒し」とは何を意味するのだろうか。癒しと治癒の間にはどのような違いがあるのだろうか。・・。
 聖書にある癒しの物語とわれわれを取り巻く現代の状況との間の関連性もまた、同様に重要なことである。今日のわれわれにとって癒しとは何を意味するのだろうか。どのような神学が、福音書にある癒しの物語をわれわれが説教する際の土台になっているのだろうか。われわれの説教は、今日の障害を抱えて生きる人々にどのような影響を与えているだろうか。
 これらは、本書が取り組む問題の一部である。・・。
 聖書の癒しの物語は、イエスが癒した人々に対して解放をもたらす出来事になるように用いられた。かれら障害者は、その障害ゆえに、礼拝共同体やさらに広く言えば社会から排除されてきたが、イエスの行為によって、かれらはかれらの宗教的・世俗的・家庭的領域に完全に参加できるようになった。癒しは解放をもたらすものであった。それは障害者をその帰属していた元の共同体へと再帰属させることを意味していたからである。
 しかし、・・。
 神学的に保守的な立場とリベラルな立場の両方ともが障害者の疎外や抑圧に加担してきた。・・。
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 階段のような物理的障壁や手話通訳者の不在といったことも、明らかに障害者を教会から排除する要因になるが、こうした特定の問題に関しては、その問題を認識し、可能な解決法を提案する本が他に多く存在する。しかし、本書では、説教するに当たって癒しの物語を解釈する際に生じる神学的・精神的姿勢にまつわる障壁を取り扱っている。