風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである(コリント人への第一の手紙1:31)

「これまで、「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙二10:17)という御言葉を何度も聞いてきたが、もう一つすっきり納得できないでいた。」と書いてから、なぜ納得出来ないでいたのだろうと考えた。
どうして「主を誇る」のか、これまでにも聴いたことがあったはずだ、と・・。それに、パウロの書簡はパウロの神学だから、「誇る者は主を誇れ」という結論に至った過程がこの御言葉の前後に書かれているはずだ、と思った。そこで聖書を開いてみた。すると、コリント人への第一の手紙の方に書かれていた。この言葉自体は元々はエレミヤ書で語られたもののようだが・・。

兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。(コリント人への第一の手紙1:26〜31)
「キリストは神に立てられて、わたしたちのあがないになられた」ーこれは、私たちの罪の身代わりとなってキリストが十字架につかれたということだ。これは、つまり、キリストを代償にするほどに神が私たちを愛してくださったということである。誇る者は、この「神の愛」を誇れ、というのだ。

又、ガラテヤ人への手紙には次のように書かれている。
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。(ガラテヤ人への手紙6:14)
そして、ヨハネの第一の手紙には、
主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。(ヨハネの第一の手紙3:16)
私たちの誇りは、このキリストの私への愛を知ることによって育まれ守られる。

それにしてもきちんと書かれているのに、どうしてこれまで納得できないと思っていたのだろう。う〜ん?
聖書の言葉を標語のようにしてしまってはいけない!ということではないだろうか。標語のようにしてしまうと、そこで言われている喜ばしい内容を受け取れなくなってしまうことがあるのだと思う。

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http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20130826/p1