風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

プライド(誇り)について考えるー鷲田清一著『大事なものは見えにくい』から

はだしのゲン閉架措置事件があってから又「誇り」についてあれこれと考えていた。そんな時に本屋で手にして、「いいなぁ」と思って買ってきた文庫本の中に「プライド(誇り)」について触れた文章があった。

鷲田清一=著『大事なものは見えにくい』(角川ソフィア文庫)「プライドということ」から抜粋引用。

 プライドについては、少し誤解があるようにおもう。
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 ・・。言ってみれば、わたしがわたしとしてここにいる理由ないしは根拠がほしいのである。・・。
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 それに、特性は、なくす恐れがある。・・。こういうプライドは、いつ失うやもしれぬという不安と裏腹である。
 これとは反対に、プライドは他人から与えられるものだと考えることはできないか。他人に大事にされるとき、「もしあなたにこれができたら・・・」などという条件もつけないで、わたしがこのままで他人に大事にされていると感じられるとき、ひとはじぶんの「いのち」をそんなに粗末にはできないはずだ。

ここまで読んだ時、聖書の言葉を思い起こした。

あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、・・。(イザヤ書43:4)
これまで、「誇る者は主を誇れ。」(コリントの信徒への手紙二10:17)という御言葉を何度も聞いてきたが、もう一つすっきり納得できないでいた。それが、鷲田氏のこの文章を読んだときにすっと納得できた気がした。
神の目には私たち一人一人は尊く、価高い者達であるという。その私たちのために神はイエスキリストをこの世に遣わし、イエスキリストの命を私たちの命の対価としてくださったのだ。「主を誇る」というのは、その「私たちを愛してくださった神の愛」を誇るということなのだと思った。私たちの「誇り」は、この「神の愛」に根ざしているのだ。

又、「デザインの思想」の中でも次のような言葉に出合った。

 ・・。もうどうでもいいと、じぶんの身体を傷つけたり、自暴自棄になったりするのは、じぶんのことを大切に思えないような状態のなかにいるということだ。じぶんを大事に思う気持ち、これは昔から「自尊心」と呼ばれてきたが、「自尊心」もまた、他人に大事にされてきた、ていねいに扱われているという体験を折り重ねるなかで、じぶんはそれほど大切な存在なのだと知らされるところからしか生まれてこない。
鷲田清一=著『大事なものは見えにくい』(角川ソフィア文庫)より

日本語大辞典によると「プライド」とは、「ほこり、自尊心、自負心」となっている。

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http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20130828/p1