風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

内田樹氏のレヴィナスについてのブログ記事を読んで思い浮かべた人物−ボンヘッファー

内田樹氏のレヴィナスについてのブログ記事を読んでボンヘッファーを思い浮かべた。
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内田樹の研究室「朴聖煥先生のこと」

調べて見ると、レヴィナスボンヘッファーは同じ1906年に生まれているようだ。
すると、ボンヘッファーヒトラー暗殺計画に加わり投獄され処刑される過程においてキリスト者として確立していったと同じ思想を、レヴィナスは、ユダヤ人として第二次世界大戦を生き延び、戦後ユダヤ人達を信仰に踏み止まらせるためにユダヤ教において構築していったということになるのではないかと思った。
私はレヴィナスについては今回初めて名前を知ったのでその哲学思想については全く分かっていない。又、ボンヘッファーについても学んだわけではないので詳しい神学を知ってはいない。けれど、この二人の思想が今この日本にとってとても大事なもののように思われるので、ここに記すことにする。

村上伸=著『ボンヘッファー』(清水書院より以下に引用する。

 「成人した人間」とはどういうことか。
 このことについてボンヘッファーは、六月八日付けの手紙の中で詳細に述べている。
 「だいたい一三世紀に始まっている・・・・人間の自律の方向を目指す運動は・・・・われわれの時代においてある種の完成に達した。人間は、あらゆる重要な問題において、『神という作業仮説』の助けをかりることなしに自分自身を処理することを学んだ。科学と芸術と倫理の問題においてこれは自明のこととなり、もうほとんどそれに触れようとする人はいない。しかし、約百年来、このことは宗教的な問題にも加速度的にあてはまるようになった。いっさいは『神』なしにやれるし、しかも以前と全く同じようにうまく行くことが分かった。ちょうど科学の領域におけるのと同じように、一般の人間的領域においても、『神』はどんどん生活から追い払われ、地盤を失っている」(378)。
ここで言われていることは明らかであろう。昔、人々はなにか分からないことがあると、「神さま」を持ち出して説明した。「作業仮説」というのはそういう意味である。その頃人間はまだ自分で自分を律する状態ではなく、すべてを「神」という「後見人」の助けを借りて、いわば他律的に生きていた。いわば子供のようであった。だが、子供が成長して一人前になると親の後見から独立して自律的になるように、世界も全体として「成人」してきた。ことに自然科学の進歩にともない、隙間を埋める「補充物としての神」(361)などをいちいち持ち出さなくても一切を説明できるようになったし、その他の領域でも、それ自体に内在する固有法則性が見出されることによって、もはや「神」は必要でなくなったのである。ちょうど、成人した子供がいつか親ばなれして行くように。
 ボンヘッファーは、この不可逆的・必然的なプロセスを「成人化」とよんで肯定したのであった。むろん他方には、この過程を「神からの、またキリストからの大きな離反」(378)として嘆き、かつての子供の状態に引き戻そうとするかのように悪あがきをする「キリスト教的弁証論」(378)がまだ教会内には多くある。これを彼は・・斥ける。・・・。
 さて、それならば、神は死んでしまった(ニイチェ)のであろうか。論理の「補充物」としての神、「後見人」としての、つまり何か困ったことがあると泣きつく相手としての神、「われわれの可能性の限界のところで」(361)初めて持ち出される神、「いわゆる究極的な問題においてのみ、機械仕掛けの神として機能させ」(396)られる神はたしかに死んだ。
 だが、旧・新約聖書に証しされている神は死んではいない、と彼は信じている。では、この神はいかなる神か。
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 「神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」(417)という言葉は、こうして理解されるのである。
        (村上伸=著『ボンヘッファー』(清水書院)より)
          (註:()内数字は、『獄中書簡集』の中のページを示している。)

ボンヘッファーヒトラー暗殺に加わったことを私は肯定できないし、やはりどうしても間違っていたと思う。生き延びて抵抗する道を模索して欲しかったと思う。けれど、ボンヘッファーのこの思想は静かに眠らせておいてはいけないのだと思う。

内田氏の記事は、長くキリスト者として生きてきた朴聖煥先生が自らの信仰を自問した時にレヴィナスという名前を知り、内田氏が訳されたレヴィナスの著書に辿りつかれたという内容のものである。内田氏はブログにこう書いておられる。

先生は「受難」された人である。
朴先生を13年半獄舎に投じたのは先生の同国人である。

イエス・キリストはまさに同国人によって十字架にかけられたのだ。
同国人によって十字架にかけられるという出来事は歴史の中で繰り返されて来たのだ。そして、福島という犠牲を出しながら、尚、原子力を推進しようという方向に突き進もうとしているこの日本にあって、私たちも又、同国人を十字架にかけるという危機に直面しているのだと思う。
日本のキリスト者達はもう平和な時代の信仰に胡座をかいている場合ではないのだと思う。私達はこのレヴィナスの思想を受け取って、そこから成熟したキリスト教信仰を構築していかなくてはならない。
「神の不在に耐えて」、神の前で、神と共に、私達自らがこの地上に神の国を実現することを祈り求めて生きなければならない、そのように思う。

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http://blog.tatsuru.com/2011/01/12_1030.php
http://blog.tatsuru.com/2011/01/23_1244.php


讃美歌94
久しく待ちにし主よ、とく来たりて、
み民のなわめを解き放ちたまえ。
主よ主よ、み民を救わせたまえや

クリスマスイブの礼拝でこの讃美歌を歌って、今こそ再臨の主を求めてこの歌を歌わなくてはならない、祈り求めることを止めてはならないのだと強く思わされた。

まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」(ペトロの手紙二3:3~4)

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(ペテロの第二の手紙3:9)