風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

名なしのスープの物語

『それからはスープのことばかり考えて暮らした』吉田篤弘=作(暮らしの手帖社)

 他人の家を訪れ、まだ呼び鈴も押していないのに、いきなり土や草の匂いに囲まれているのが不思議でならない。そうして家を取り囲む庭とも小道ともつかない土の領域を踏みしめ、建物を半ばまわり込んだところにさしかかると、そこにゆったりした大きな玄関が唐突に現れ、土の匂いとは別に、バターと玉ねぎが溶け合った甘い香りが鼻先に漂ってきた。
 そこにはどこか風通しの良さがあり、夏でもないのに、海のそばの家に遊びにいったときのような解放感があった。・・。
 ドアが開くと、ほの甘い香りが玄関にたちこめた。
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 そこには大きな食卓があった。
 というより、その部屋には大きな食卓しかなく、四本の脚が見たこともないくらい太くがっしりして、テーブル・クロスもなく、いくつものグラスの跡や、焦げつきや、ソースの染みらしきものが点々と残されていた。

          *

「自分だけのもの?」
「そう。自分のため、と言ったらいいのかしら。あのね、スープをつくり始めたのはそれほど昔のことではないんです。この家から家族がひとりひとりいなくなって、とうとう私だけになったとき−」
 そこでまた声が細くなった。

          *

 何よりこれは、あおいさんのスープで、だからこそ口にした誰もが驚き、そればかりでなく、それぞれの記憶に何かが届いて、何かが立ち上がり、記憶の中にいる人たちまでもが「おいしい」と笑みを浮かべているーそんな錯覚があった。
「いや、本当なんですよ」
 僕はあおいさんに報告せずにはいられなかった。
「みんな、おしゃべりになって、しばらく忘れていたようなことを口にしてーきっと、スープの味が音楽みたいに響いたんです」
「名なしのスープなのにねぇ」
 あおいさんは、わざと驚いたような素振りをみせたが、たぶんこのスープにそんな不思議な効用があることを誰より知っていたに違いない。
 ノートを開いてレシピを教えてくれたとき、「この家でひとりになって、はじめてつくったスープなのよ」と、秘密を打ち明けるときの声色で話してくれたのだ。
 というか、これは本当に秘密のスープで、いつまでも元気なあおいさんを支えてきたのは、きっとこの<名なしのスープ>なのだ。

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名なしのスープのつくり方
○期待をしないこと。
○どんなスープが出来上がるかは鍋しか知らない。
○鍋は偉い。尊敬の念をこめて洗い磨く。が、期待はほどほどに。
○磨いた鍋は空のまましばらく置く。すぐにつくり始めない。我慢をする。
○空の鍋に何か転がり込んでこないものかと、ほどほどの期待をする。
○しかし、すべては鍋に任せる。すると、鍋がつくってくれる。
○冷蔵庫を覗き、たまたまそのときあったものを鍋に放り込む。
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              (『それからはスープのことばかり考えて暮らした』より引用)