風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

捨てないで持ってきた物を活かすことが出来て嬉しい。

夏になると勝手口を開けて風を通したいので、暖簾をかけることにした。

暖簾の横には

猫の奥さん。

 

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こちらは、頂いた手作りの

袋収納袋。

 

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引っ越し先のリビングから見えるのは向かいのマンションのベランダの洗濯物なので、眺めはあまり良くない。庭の桜は今年で見納め。

 

 

 

 

 

「愛において神を知る」(ホセア書6:4~11)(過去の説教から)

「時を貫いて変わることのない永遠の愛において神を知る」(ホセア書6:4~11)

 わたしたちは移りゆくこの世にあって、変わらないものに対するあこがれをもっています。中でも愛情・友情といった人間同士の関係の中で変わらないものに対して強いあこがれをもっています。映画や小説などで「永遠の愛を誓う」という場面があります。様々の愛を誓う言葉が人々の心を捉えました。映画の有名なセリフに「愛とは決して後悔しないことよ」(ある愛の詩)というものがあります。この言葉には、何があっても後悔しない、愛する相手に対する揺るがぬ想いが込められています。そして、わたしたちはこの変わらぬ想いに対して惹かれ続けるのです。

 わたしたちが、このように永遠なるもの、変わらざるものに対してあこがれを持ち続けるのは、わたしたち人間が永遠なる神の姿に似せて造られたものだからです。神の似姿に造られているからわたしたちは永遠なるもの、変わらざるもの、特に愛において変わらざるものに惹かれるのです。そして本来、わたしたちはこの変わらぬ愛の世界に生きる存在だったのです。

 しかし、わたしたちは罪を犯したことによって、永遠に変わらない愛の世界からすべてが移りゆく世へと生きる世界を変えてしまったのです。してしまったことはほんのささいなことだったのです。神が食べてはいけないと命じておられた木の実を食べただけなのです。たったそれだけのことなのです。

 しかし、行為自身はささいであっても、その行為の持っていた意味は大きかったのです。それは、信頼というものを破棄するというものでした。約束していた事柄を反故にする、信頼関係を捨て裏切るという意味を持った行為だったのです。

 このことによって、わたしたちは永遠に変わらない愛の世界から、すべてが移りゆく世に身を移すことになったのです。そしてついには「あなた方の愛は朝の雲のごとく、たちまち消える露のようなもの」と言われるまでになってしまったのです。

 しかし、わたしたちは図星を指されると腹が立つものです。自分でも「ここがいけないところだ」と分かっていても、面と向かって他人から批判されると腹が立ちますし、認めたくなくなります。確かに、今のわたしたちの愛は完全でもなければ、永遠でも、不変でもありません。しかし、「あなた方の愛は朝の雲のごとく、たちまち消える露のようなもの」とまで言われてしまうと、反論したくなるものです。完全でも、永遠でも、不変でもないが、たちまち消える露よりは豊かな愛がいくらでもあるじゃないかと言いたくなります。

 

 7節から神は罪の事例をあげておられます。「彼らはアダムで契約を破り、かしこでわたしに背いた」

 ここに記されているアダムという土地は、かつてイスラエルの民がエジプトから救い出されて40年の荒れ野の旅を終え、約束の地カナンに入る際にヨルダン川を渡ったところです。ヨシュアという指導者に率いられたイスラエルヨルダン川を渡ったとき、このアダムというところでヨルダン川の水が神の力によってせき止められ、イスラエルの民は歩いてヨルダン川を渡り、カナンの地へと入っていったのです。ヨシュア3:9−17)

 8節に「ギレアデは悪を行う者の町で、血の足跡で満たされている」とあります。ギレアデは、高原で樹木が多く、牧草も豊富で牧畜が盛んでした。さらに乳香の産地でもありました。

 9節には「盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは党を組み、シケムへ行く道で人を殺す」とあります。

 ここに出てくるシケムという町は、過失によって人を殺してしまった人が、血の復讐から保護されるために設けられた「逃れの町」です。

 これらの土地がどのような土地であるかを考えながらここの聖書の言葉を読みますと、神の民イスラエルは、神が奇跡をもって神の救いの約束が確かであることを明らかにしたアダムの町で神との契約を破り、神の祝福を受け豊かなところで血を流し、人の物を奪い去り、保護を求めてシケムの町へ向かう者を暴力的な祭司たちが襲い、殺してしまうというようなことが起こっていたということなのです。

 ここにあげられた土地の名前はどれも神のイスラエルに対する愛を表すものです。

 長年の約束を果たした記念すべき町であり、神の祝福を覚える土地であり、神のあわれみと守りを確認する町でした。

 しかしイスラエルはそれらの場所でことごとく神に背いたのです。神の恩寵を受け、愛を注がれた場所で神の民は神の恵みを踏みにじったのです。

 大切にしていた思い出を踏みにじられ、愛を確かめ合った場所で裏切られるのです。神が負われた痛みは一体どれほどのものだったでしょうか。

 

 イスラエルのすべての人が悪人だったのではありません。おそらく大多数の人は、家族や親しい人にとってはとてもいい人だったに違いありません。しかし、イスラエルの社会には悲惨な出来事が起こっていました。それは、罪人であるわたしがどれほど家族や親しい人にとって良い人であり、「たちまち消える露」より豊かな愛を注いだとしても、この社会から差別や迫害や争いがなくならないのと同じです。

 神から「あなた方の愛は朝の雲のごとく、たちまち消える露のようなもの」との言葉を突きつけられて、そんなことはないと断言できる人は、神の愛の大きさを知らず、自己中心的な愛を見ている人です。そして、もしその自己中心的なささやかな罪人の愛でいいじゃないかと言うならば、その人は罪の世で起こってくる差別・迫害・争いの中で、愛する者が苦しみ、傷つき、命奪われるのもやむを得ないとあきらめる人生を生きるのでしょう。

 

 しかし、神は愛する者が傷つき、滅んでいくのをやむを得ないなどとすることはできないのです。神の愛は、あきらめではなく、愛する者の救いのために独り子イエス=キリストを差し出す愛なのです。

 

 神は真実な愛によって結び合うことを願っておられます。預言者ホセアによってこれらの言葉が語られたときも礼拝は行われていました。しかし、イスラエルの人々は献げ物は出しましたが、自分自身を神の前に差し出すことはしませんでした。

 6節をご覧ください。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」と神は言われます。

 

 神はわたしたちと知り合うことを望んでおられます。知り合うと言っても、顔を見たことがありますとか、隣りに座ったことがありますという程度ではありません。本気になって向かい合って相手のことを知り、確かな信頼を築くために知り合うことを望んでおられるのです。禁じられた木の実を食べたことによって壊されてしまった信頼を回復し、罪によって離れていったわたしたちをどれほど神が愛しているかを知らせるために、神は礼拝においてわたしたちに出会い、向かい合ってくださるのです。

 神はわたしたちを求めておられます。わたしたちが神の言うとおりに礼拝という儀式を型どおり執り行うことや、たくさんのお金を持ってくることを望んでおられるのではありません。神は、わたしたちが神と出会い、神を本当に知ることを望んでおられるのです。

 

 そして、わたしたちは愛において神を知るのです。時を貫いて変わることのない永遠の愛においてわたしたちは神を知るのです。わたしたちが心密かにあこがれている永遠の愛、変わることのない愛が、神から注がれているのです。

 

 わたしたちが今与っているこの礼拝、神はご自身を知らせるために、変わることのない愛と信頼を回復するために、わたしたちを召し集められました。毎週主の日毎に礼拝は行われますが、わたしたちが熱心だから主の日毎に開かれるのではありません。わたしたちを最後まで救おうとする神の愛が真実だから主の日毎に礼拝はあるのです。だから、わたしたちは毎週招かれるのです。誰一人として「もう来なくていい」とは言われないのです。そして、すべての人が、掛け値なしにすべての人がこの礼拝に招かれているのです。真実なる神が、救いの業を押し進めておられるのです。

 

 この礼拝の場から救いの御業が、神の愛が広がっていくのです。すべての人を包み、全世界を包む神の愛が今注がれています。

 

 

神様 あなたに会いたくなった(重吉)



 

 

 

 

花がふってくると思う(八木重吉「貧しき信徒」より)

便箋や葉書をたくさん持っている。

気に入ったものは、一枚とっておきたいと思う。

それで、

重吉の詩を書いて、

飾ることにした。

 

実は、ふってくるのは花だけではない。

枝に擬態していたらしい幼虫も台の上に降りたって、落ちた花びらを食べていた。

申し訳ないが、プチッと潰してゴミ箱へ。

 

昔々、保育園の頃、娘は園の庭の桜にいた毛虫を家に持って帰ると言いはって、てのひらに這わせて持って帰ったことがある。

その毛虫は綺麗な黄緑色の繭を作って、蛾となって飛び立った。俳句の師匠は山繭だったろうと言っていたが・・?

それが今では、虫を見ると大騒ぎする虫嫌いになって、人間というのはいつどうなるか本当に分からないものだと熟々思う。

 

今日潰した虫は毛虫ではなく桜の枝によく似た芋虫だった。

いずれにしても蛾になっただろうと思うが、どういう蛹になったのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

無駄な収納場が多くて狭い玄関と洗面所

キッチンの脇の勝手口にはカーテンレールもついてなくて、向かいのマンションのベランダからうちの中が丸見え状態だったので、

ロールカーテンをつけた。

 

 

結局、花瓶擬きのガラクタをほぼ全部持ってきて、

花瓶置き場と化している靴箱。

 

 

 

 

夕となり、

また朝となった。(創世記1:8)

 

うちの中には、

葉っぱの出始めたさくら。

 

 

 

 

 

 

「その代金をどれぐらい人に施すかも全く自由だった。なのに…」(使徒の働き5:4 リビングバイブル)

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ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒言行録5:1~4)

 

使徒言行録5章1〜4で、リビングバイブル訳では「ごまかし」という言葉は使われていないのだが、「自由」についての考察がこちらの方がしやすいと思うので、以下に抜粋する。

 ところが一方で、こんな事件も起こりました。アナニヤという人が妻サッピラといっしょに自分たちの土地を売ったのですが、アナニヤは、代金の一部を手もとに残しておきながら、すまして、「これで全額です」と言って使徒たちに差し出したのです。妻サッピラと示し合わせたうえでのことでした。

 しかし、ペテロはそれを見抜いて、彼を責めました。「アナニヤよ。悪魔に心を奪われたのか。これで全額ですと言った時、あなたは、ほかのだれでもなく、聖霊ご自身を欺いたのだ。あなたの財産は、売ろうと売るまいと、あなたのものであることに変わりはなかったのに。たとえ売ったとしても、その代金をどれぐらい人に施すかも全く自由だった。なのに、どうしてこんなことをしたのか。あなたは私たちを欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒の働き5:1~4 リビングバイブル2016年)

 

「代金をどれぐらい人に施すかも全く自由だった」のに、アナニヤは代金の一部を手もとに残しながら「これで全額です」と言って差し出したのだ。

 

どうしてそのようなことをしたのか?

 

4章の終わりに、

土地や家を持っている者はそれを売り払い、代金を使徒たちのところに持って来ました。そのお金は必要に応じてみんなに分配されたので、貧しい者は一人もいませんでした。

 キプロス島出身で、レビ人のヨセフもその一人です。彼はバルナバ(慰めの子)と呼ばれていましたが、畑を売った代金を、「困っている人たちに」と言って、使徒たちのところへ持って来ました。 (使徒言行録4:34~37  リビングバイブル)

このように記されている。

 

つまりアナニヤは見栄を張りたかったのだ。見栄を張ることで、虚栄に囚われて、自由を失ったのだ。

 

信仰とは本来自由を得させるはずのものであるのに、アナニヤは自由とは真逆の、信仰とは真逆の方向へと向かっていったのだ。

福音は全ての囚われからの解放であるはずだが、教会の中でも常にこのような転倒が起こり得る。