風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

花がふってくると思う(八木重吉「貧しき信徒」より)

便箋や葉書をたくさん持っている。

気に入ったものは、一枚とっておきたいと思う。

それで、

重吉の詩を書いて、

飾ることにした。

 

実は、ふってくるのは花だけではない。

枝に擬態していたらしい幼虫も台の上に降りたって、落ちた花びらを食べていた。

申し訳ないが、プチッと潰してゴミ箱へ。

 

昔々、保育園の頃、娘は園の庭の桜にいた毛虫を家に持って帰ると言いはって、てのひらに這わせて持って帰ったことがある。

その毛虫は綺麗な黄緑色の繭を作って、蛾となって飛び立った。俳句の師匠は山繭だったろうと言っていたが・・?

それが今では、虫を見ると大騒ぎする虫嫌いになって、人間というのはいつどうなるか本当に分からないものだと熟々思う。

 

今日潰した虫は毛虫ではなく桜の枝によく似た芋虫だった。

いずれにしても蛾になっただろうと思うが、どういう蛹になったのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

無駄な収納場が多くて狭い玄関と洗面所

キッチンの脇の勝手口にはカーテンレールもついてなくて、向かいのマンションのベランダからうちの中が丸見え状態だったので、

ロールカーテンをつけた。

 

 

結局、花瓶擬きのガラクタをほぼ全部持ってきて、

花瓶置き場と化している靴箱。

 

 

 

 

夕となり、

また朝となった。(創世記1:8)

 

うちの中には、

葉っぱの出始めたさくら。

 

 

 

 

 

 

「その代金をどれぐらい人に施すかも全く自由だった。なのに…」(使徒の働き5:4 リビングバイブル)

myrtus77.hatenablog.com

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒言行録5:1~4)

 

使徒言行録5章1〜4で、リビングバイブル訳では「ごまかし」という言葉は使われていないのだが、「自由」についての考察がこちらの方がしやすいと思うので、以下に抜粋する。

 ところが一方で、こんな事件も起こりました。アナニヤという人が妻サッピラといっしょに自分たちの土地を売ったのですが、アナニヤは、代金の一部を手もとに残しておきながら、すまして、「これで全額です」と言って使徒たちに差し出したのです。妻サッピラと示し合わせたうえでのことでした。

 しかし、ペテロはそれを見抜いて、彼を責めました。「アナニヤよ。悪魔に心を奪われたのか。これで全額ですと言った時、あなたは、ほかのだれでもなく、聖霊ご自身を欺いたのだ。あなたの財産は、売ろうと売るまいと、あなたのものであることに変わりはなかったのに。たとえ売ったとしても、その代金をどれぐらい人に施すかも全く自由だった。なのに、どうしてこんなことをしたのか。あなたは私たちを欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒の働き5:1~4 リビングバイブル2016年)

 

「代金をどれぐらい人に施すかも全く自由だった」のに、アナニヤは代金の一部を手もとに残しながら「これで全額です」と言って差し出したのだ。

 

どうしてそのようなことをしたのか?

 

4章の終わりに、

土地や家を持っている者はそれを売り払い、代金を使徒たちのところに持って来ました。そのお金は必要に応じてみんなに分配されたので、貧しい者は一人もいませんでした。

 キプロス島出身で、レビ人のヨセフもその一人です。彼はバルナバ(慰めの子)と呼ばれていましたが、畑を売った代金を、「困っている人たちに」と言って、使徒たちのところへ持って来ました。 (使徒言行録4:34~37  リビングバイブル)

このように記されている。

 

つまりアナニヤは見栄を張りたかったのだ。見栄を張ることで、虚栄に囚われて、自由を失ったのだ。

 

信仰とは本来自由を得させるはずのものであるのに、アナニヤは自由とは真逆の、信仰とは真逆の方向へと向かっていったのだ。

福音は全ての囚われからの解放であるはずだが、教会の中でも常にこのような転倒が起こり得る。

 

 

 

 

 

 

《ごまかし》という罪

子ども讃美歌にこんな歌詞のものがある。

「悪いことは小さくてもお嫌いなさる神さま」

小さい悪とはどういうものだろうか?人殺し等は大きな悪として思い浮かべそうに思える。

しかしキリストの神は、大きい悪も小さい悪もお見逃しにはならないだろう。お見逃しにならないからキリストは、十字架を負われたのだ。

 

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒言行録5:1~4)

 

《ごまかし》という罪は、罪の中でも最も大きい罪ではないか、と思う。

誤魔化すのはなにもお金に限ったことではない。

自分の過ちから目を逸らせようとしたり、自分の罪をなかったかのように有耶無耶にしようとする行為こそが《ごまかし》という罪であろう。

 

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。(ヨハネの手紙一1:8)

 

江藤は、太宰治の《弱さ》を批判するわけではない。《弱さの演技》、つまり《弱さの自己欺瞞》を批判する。

(略)

 しかし、《弱者》は自分が弱者であるという現実を、それが弱者たる所以なのだが、なかなか受け入れない。そこで、《自己正当化》を試みる。

 自分が弱者なのは、弱いからではなく、《正しい》からだ、《善》だからだ、だからこそ負けたのだ、だからこそ敗者になったのだ、と。自分たちは《正しい》が故に、また《善》なるが故に、敗者になったのだ。

 ここで、ニーチェの言う《価値転倒》が起こっている。《弱いのは正義である》《弱者は善人である》という価値転倒。ここに自己欺瞞がある。

 ニーチェキリスト教的道徳をその典型であると批判する。(略)

 ニーチェは《弱者》や《弱さ》を批判し否定したのではない。弱者の自己欺瞞を批判したのである。(山崎行太郎の「江藤淳とその時代」強さと弱さの形而上学月刊日本4月号」より)

 

自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。(使徒言行録3:19 聖書協会共同訳)

 

口語訳では、

「自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」と、「本心に」という言葉が挿入されている。

 

自己欺瞞とは対照的な、自分の心に真っ直ぐ向き合うようなイメージである。

 

 

続く「ニーチェルサンチマン理論」

このアガペー思想は、現代よりずっと以前からセンチメンタルなものにされていた。そのことは、ロマン主義において起こった。キリスト教的愛の概念は、センチメンタルな欲求ないし憐憫からほとんど区別されなかった。…かくて慈善が、私が今定義した意味における愛に代わった。これらすべてに対して、ニーチェは戦い、それに生の自己肯定への意志を対置した。彼は、愛のキリスト教的観念の批判者ではなくて、愛を憐憫に還元するセンチメンタルなものとされた愛の観念 ー彼は、それが愛のキリスト教的観念だと思っているのであるがー の偉大な批判者である。力、力への意志、生の自己肯定の名において、彼は強い生をおとしめるこの思想と戦う。

続き、

ニーチェは、われわれが愛について説くにあたって記憶すべき大切な点を明確にした。諸君は無私の愛について語り、他者のために自己を犠牲にしようとするが、これは、他人の保護の下にはいり込もうとする弱者のための道であるにすぎない、とニーチェはいった。精神分析学者のエーリッヒ・フロムは、ニーチェが攻撃したこの誤った種類の愛を共棲的愛と呼んだ。これは、強者に対する弱者の愛であり、それは他者を搾取する愛の一形式である。この種の自己放棄は、搾取への無意識的な欲求を持っている。これこそニーチェが実際に戦った相手である。

続き、

ニーチェは、音楽にも非常に興味を持っていた。彼は偉大な作曲家であり、現代音楽へのかけ橋となったリヒャルト・ヴァーグナーの親しい友人であった。しかし、最も興味のある事件の一つは、ニーチェヴァーグナーの衝突であった。…次第にニーチェヴァーグナーのなかに感傷性の宗教の回復に気づいた。…。ここで力への意志、生の自己肯定の意志を主張するニーチェは、徹底的に激しく反発した。(ティリッヒ著作集 別巻三より「ニーチェルサンチマン理論」)

 

キリストの神の愛は、キリストを十字架に架けて裁かれる愛である。

 

 

 

 

 

 

「最も大切なこと」(コリントの信徒への手紙一 15:1~11)

イースターの最後の礼拝は、お世話になった他教派の引退教職の先生によって守られた。

 

 ○○牧師が病気になられてからも、私は○○教会で礼拝を守らせていただきました。そして教会のために毎日祈らせていただいています。先生が入院されている間、ご家族が教会を守ってくださいました。長老、執事の方々や教会員が心を一つにして礼拝を捧げ、また祈祷会を守り続けてくださいました。そして皆さまが喜んで奉仕をされていました。そのお姿を拝見して、神さまのお守りとお導きがあり、復活のキリストが今も生きて共にいてくださっていると思いました。○○教会にこの度○○牧師がおいでくださいます。この最も大切な福音を、○○の人々に宣べ伝える教会として歩み続けることができますように、みんなで祈りを

 

 

 

イースターの最後の花は、

花屋さんにお願いした。

葉っぱの上にイースターのお飾りのヒヨコを載せて頂いた。

持って行く途中でコロンと落ちるかも知れません、と心配なさっていた。

大丈夫、落ちませんでしたよ。(花屋さんへ)