風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神の愛に偽善はない!(ローマの信徒への手紙 12:9~10からの説教)

ローマの信徒への手紙 12:9~10(新共同訳)からの説教抜粋

 

 9節「愛には偽りがあってはなりません。」

 実は、原文は「愛」という単語と「偽善ではない」という一つの単語との二つの単語だけで、動詞はありません。ですから元の文章には「あってはならない」という禁止の意味はありません。ですので、わたしはそのまま「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。

 「偽りがあってはなりません」と言われると、「わたしの愛は偽りだらけだ」とか「偽りを減らすように努力しなくては」とか、聖書が言おうとしていることとは別の方向に思いが反応してしまうのではないかと思います。ここでは、あなたの愛について反省しなさいとか、努力しなさいということを言おうとしているのではありません。ですから「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。

 偽善という言葉は、仮面をかぶるという意味です。だから、愛していないのに、愛しているふりをすることがここでの偽善です。愛は偽善ではないので、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛の内に、互いを愛し、敬意を持って互いに相手を立てていきます。

 何より神が一人ひとりを愛しておられ、キリストは命まで献げてくださいました。その主の御心が成るように、与えられた賜物を愛をもって用い仕える、それが愛によって共に生きるということです。

 

 当たり前のように「愛」という言葉を使ってきました。当然「愛とは何ですか」という問いがあるだろうと思います。聖書には「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)とあります。聖書に記された神の御言葉と御業に触れていくとき、わたしたちは神の愛に気づかされていきます。

 わたしは聖書を読むと、神の愛とは「共に生きようとする思い」なのだと思います。罪のため神と共に歩めなくなった罪人のために、救いの御業をなし、ついにはイエス キリストを与えてくださり、神と共に生きられるようにしてくださる、この「共に生きようとする思い」こそが神の愛なのだと思います。

 

 実は、わたしたちが今当たり前のように使っている「愛」という言葉が今のように使われるようになったのは、明治になってからだと言われています。昭和5年に発行された『日本伝道めぐみのあと』(ト部幾太郎 編集)に収められている山本秀煌(やまもと ひでてる)「伝道の草分」という文章にはこう記されています。「今でこそ愛といふ言葉は崇高な立派な言葉であるが、それも昔はさうでなく、一種の低い賤しい意味に用ゐられたものである。尊い意味で云へば愛は上級のものが下級のものを憐れむといふ義で、君が臣を愛し、親が子を愛すと云ったが、臣から君へ対しては忠、子から親に対しては孝、弟から兄に対しては悌、上長に対しては敬で、愛といふ言葉は用ゐなかった。・・又低級の意味ではそれは専ら男女間の神聖ならぬ卑しい関係を指示したものだ。さういふ次第から私共は愛といふ言葉を用ゐることに躊躇した。」

 すんなりと「愛」という言葉が使われたのではないことが分かります。

 では明治以前、キリシタン時代には「愛」はどう理解されていたのかといいますと、「御大切(ごたいせつ)」だったそうです。愛とは、相手を大切にすることだという訳です。これも大事な理解であろうと思います。

 ではどのようにして「愛」という言葉が積極的なよい意味で用いられるようになったのでしょうか。これは中村正直が訳した西国立志編という本で、キリスト教の精神を要約した言葉として敬天愛人 天を敬い、人を愛する」という言葉を使ったのが大きな要因の一つではないかと思います。中村正直は、貴族院議員も務めた人物で、明治天皇にも洗礼を受けるように勧めた人だそうです。そして中村正直西郷隆盛の友人でした。西郷隆盛が残した『南洲遺訓』(彼は号として南洲と名乗っていた)にも敬天愛人という言葉が出てきます。実は彼、主君 島津斉彬から漢文の聖書を贈られており、聖書を教えていたこともあるそうです。

 こういうことがあって、明治政府の人間には敬天愛人という言葉が知られていたのだろうと思います。先程引用した「伝道の草分」には「恐らくは明治五年制定の三条の規則なるものの第一条に、敬神、愛国と有るのが、愛の字の用法の変りはじめではないかと思ふ」とあります。

 少々説明が長くなりましたが、わたしたちが今使っている「愛」という言葉の基には、聖書があり、神の愛があることを心に留めておいて頂ければと思います。

 

 聖書に戻ります。

 神の愛には偽善はありません。神は本気でわたしたち罪人を愛しておられます。独り子イエス キリストを遣わすほどに愛しておられます。

 ですから、その神の愛を受け、救いに入れられ、神と共に生きるようになったわたしたちは、悪を憎み、隣人に悪を行いません。悪とは、神の御心に反すること。神が望んでおられないことです。

 それに対し「善から離れず」の「善」は、神の御心です。「離れず」は、「のり付けをする」という言葉です。のり付けするということは、本来はくっついてはいないということです。罪人は神の御心とくっついてはいないのです。では何によって神の御心にのり付けされるのでしょうか。それは聖霊とキリストによってです。聖霊によってキリストを知り、キリストと結び合わされて、神の御心を知り、神の愛を知り、善悪を知るのです。

 

 そしてキリストに結ばれたわたしたちには、神の家族、主にある兄弟姉妹として兄弟愛の絆が与えられました。神がご自身の民として選ばれたこと、キリストがこの人のためにも十字架に付かれたことに敬意を払い、その人に与えられた賜物が神の栄光のために用いられるために互いに仕えるのです。

 「優れた者と思いなさい」という言葉は、「先に導く、先導する」という言葉です。おそらく翻訳者は「先導する」ということで「露払い」をイメージしたのでしょう。露払いは「貴い人の先に立って道を開くこと」ですから「相手を優れた者と思う」という訳になったのだろうかと推察します。ここでは、賜物が用いられるときに、先に状況を整え、神の栄光が現されるように導くことを表しています。ですから、出会いを備えられた神の導きを覚えて、互いに敬意を払い、お互いが神の栄光のために用いられるように、仕えていくのです。

 

 ですから、ここで言われている「愛」は、神の愛であり、神の愛に満たされ導かれていく愛です。だから愛は第一に神から受けるのです。愛は愛されることによって知るのです。わたしたちは愛である神にかたどって造られました。だからわたしたちには、神の愛が必要なのです。神に愛されることが必要なのです。わたしたちは神の愛を受け、神を喜ぶために礼拝へと招かれています。礼拝において神に出会い、神との愛の交わりで満たされていくために招かれているのです。

 

 神の愛には偽善はありません。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:10)

 神の愛に満たされたなら、神の愛がわたしたちを導きます。(略)神に従い行くすべてがイエス キリストの愛の内にあります。神は、わたしたちの生きるすべてをイエス キリストを通して与えてくださっています。

 

 神の愛には偽善はありません。信じて大丈夫です。ご覧なさい。この方です。イエス キリストです。この方に出会うとき、神の愛が分かります。そしていつもキリストに出会えるように、わたしたちは礼拝に招かれているのです。

 

 

全文は以下から、

fruktoj-jahurto.hatenablog.com