風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

エピローグから、ソーニャについて − ドストエフスキー『罪と罰』7

 彼は苦しみながら、しきりとこの問いを自分に発したが、しかし、川のほとりに立ったあのときすでに、彼がおそらくは自分の内部に、自分の信念の中に、深刻な虚偽を予感したはずだということは理解できなかった。彼はまた、この予感こそが、彼の生涯における未来の転機、彼の未来の復活、未来の新しい人生観の先ぶれとなりうるものであることを理解していなかった。

 彼はこの点ではむしろ、自分が断ちきることもできず、またふみ越える力もない(弱さと自分のくだらなさのために)本能の鈍い重みを認めただけだった。彼は仲間の徒刑囚たちをながめては、彼らがすべて人生を愛し、人生を大事にしているのに目を見張った! ほかでもない、彼には、自由の身であったときよりもむしろ獄中において、人生がより愛され、価値を認められ、大事にされているように思われたのである。(略)p392

 (略)概して、何よりも彼を驚かせたのは、彼とこれらの人びとの間に横たわる、あの恐ろしい、越えられることのない深淵であった。(略)

 彼自身はみなに愛されず、避けられていた。しまいには憎まれるようにさえなった。(略)

 大斎期の第二週に、彼は自分の獄舎の人びとといっしょに精進をする番がまわってきた。彼は、教会へ行って、みなといっしょに祈祷した。どういうことからか、自分でもわからなかったが、あるとき喧嘩が起こり、みながいっせいに彼に突っかかってきた。

 「この不信心ものめ! おめえは神さまを信じちゃいねえだ!」とみなは叫んだ。「叩き殺してやらにゃ」

 彼は一度として彼らと神のことや、信仰のことを話したことはなかったが、彼らは不信心者として彼を殺そうとしたのだ。彼は沈黙を守り、彼らに言い返そうとはしなかった。ひとりの徒刑囚が夢中になって彼に飛びかかろうとした。ラスコーリニコフは冷静に、無言で彼を待った。眉ひとつ動かさず、顔の筋肉ひとつふるわさなかった。折よく看守がふたりを引きわけてくれた。でなければ血を見るところだった。

 彼には、もうひとつ解決しえない問題があった。なぜ彼らがみな、あれほどソーニャを好きになったのかという問題である。ソーニャはべつに彼らに取り入ろうとするわけでもなく、顔をあわせることもまれだった。彼と会うためにほんのわずかの時間たずねて来るとき、労役の場所で会うだけだった。ところが、もうみなが彼女を知っており、彼女が彼を追ってここへ来たことも、どこでどんな暮らしをしているかも知っていた。彼女は彼らに金を与えるわけでもなく、とくに世話をやいてやることもなかった。ただ一度、クリスマスのときに、監獄中の囚人に肉饅頭と白パンを贈っただけである。しかし、彼らとソーニャの間には、しだいにより近しい関係が結ばれていった。(『罪と罰 下』(岩波文庫)より)

 

冒頭に引用した「彼は苦しみながら、しきりとこの問いを自分に発したが」の「この問い」とは、「なぜあのとき自分は自殺しなかったか」という問いである。

この事が書かれているのが、391ページだが、その前389ページにはこう書かれている。

 現在においては対象も目的もない不安、そして将来においては、それによってなんのむくわれることもないたえざる犠牲―――それがこの世で彼の前途にあるすべてだった。八年たっても彼がまだ三十二歳であり、またふたたび人生をはじめられるということが何だろう! なんのために生きるのか? 何を目標にするのか? 何を目指すのか?存在せんがために生きるのか? だが彼は以前にも、すでに何千回となく、思想のために、希望のために、さらには空想のためにさえ、自己の存在を捧げようとしたではないか。たんなる存在だけでは、彼にはいつも不足だった。彼はつねにそれ以上のものを望んだ。あるいは、自分のこの欲望の強さだけから、彼はあのとき自分を、他の人間よりもより多くを許された人間と考えたのかもしれない。(『罪と罰 下』)

このように記されて、前回引用した「せめて運命が彼に悔恨をでも贈ってくれたなら、」という部分へとつながっていく。

 

そういった自分に引き比べて、仲間の徒刑囚たちは人生を愛し、人生を大事にしているようにラスコーリニコフには思われるというのである。

「断ちきることもできず、またふみ越える力もない」自分に対して、仲間の徒刑囚達のこういった様子が392ページに記されているのだ。

つまり、ここの徒刑囚達は「ふみ越えた」存在として描かれているということである。

 

江川卓氏は、この「ふみ越える」という言葉について、解説の中で次のように記している。

この長編の題名の一要素である「罪」の原語「プレストゥプレーニエ」は「越える」を意味する「プレ」という接頭辞と、「歩む」を意味する「ストゥパーチ」という動詞の合成語から派生した名詞で、原義は「ふみ越えること」の意味なのである。ロシア語で「罪」をあらわす言葉には、このほかに、主として神の掟を破った罪を意味する「グレーフ」という名詞があるが、「プレストゥプレーニエ」のほうは、人間の定めた掟を「ふみ越えた」罪、つまり、犯罪なのである。

 

(中略)

 

 しかし何より注目されるのは、例の「ラザロの復活」の朗読直後、ラスコーリニコフがやはりソーニャに向かって言う次の言葉だろう。

 「いまにわかるさ。だってきみも、同じことをしたんだろう? きみもふみ越えた・・・・・ふみ越えることができたじゃないか」(第四部四章)

 ソーニャは自分のことを「罪の女」と呼んでいる。この「罪の女」の原語は、神の掟を破った罪を意味する「グレーフ」から派生した「グレーシニツァ」である。ということは、神を信ずるソーニャが抱いていた罪意識を、「ふみ越えた」という言葉によって、ラスコーリニコフが強引に自分の罪意識に引き寄せ、彼女を自分の「同類」にしようとしていることを意味するだろう。ここまでくれば、ラスコーリニコフの意識における「プレストゥプレーニエ」、人間の掟をふみ越える「新しい一歩」とは、たんに高利貸の老婆に対する殺人行為だけを意味したのではなく、より広範な社会的、哲学的意味、マルメラードフの言う「どこへも行き場のない」状況の中での反逆の一歩をも意味していたことが、おのずからあきらかになるだろう。(岩波文庫罪と罰 下』「解説」より)

 

392ページに記された「ふみ越える力もない」がどういう言葉なのかは分からないが、同じ人間の掟をふみ越えて罪を犯したはずのラスコーリニコフと仲間の徒刑囚達との間に「越えられることのない深淵」が横たわっていると記しているのだ。

 

その「ふみ越えた」仲間の徒刑囚達は、なぜかソーニャを知っていて愛しているのである。

 

しかし、昨日引用したラストのシーンの後では、ラスコーリニコフと徒刑囚達との間に次のような転換が起こっている。

 その晩、すでに獄舎の扉が閉ざされてから、ラスコーリニコフは板敷の寝台の上で彼女のことを考えた。この日、彼には、彼のかつての敵であった囚人たちまでが、みな自分を別な目で見はじめたように思われた。彼は自分からすすんで彼らと口をききさえし、彼らも愛想よく彼に答えた。(『罪と罰 下』)

 

 

それにしても、ソーニャが「ただ一度、クリスマスのときに、監獄中の囚人に肉饅頭と白パンを贈った」という訳には笑える。

 

確かにその通りだとは思うのだが・・。

 

言は肉となって、私たちの間に宿った。(ヨハネによる福音書1:14 聖書協会共同訳)

 

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『聴く』2020年12月号


 

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