風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

突然、エピローグへ − ドストエフスキー『罪と罰』6(訂正あり) 

 彼女はいつもおずおずと手を差しのべた。ときには、彼にふり払われはすまいかと恐れるように、まったく手を出さないこともあった。彼は、いつもしぶしぶとその手を取り、いつも怒ったように彼女を迎え、ときには彼女が訪ねてきている間、かたくなに口をつぐんでいることもあった。彼女がすっかり彼におびえ、深い悲しみに沈んで帰って行くこともめずらしくなかった。だが、いまは、ふたりの手は離れなかった。彼はちらりとすばやく彼女を見やると、ひとことも言わず、目を伏せて地面を見つめた。彼らはふたりだけで、だれも見ているものがなかった。看守もそのときは後ろを向いていた。

 どうしてそうなったのか、彼は自分でも知らなかった。ただ、ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた。彼は泣きながら、彼女の両膝を抱えた。最初の一瞬、彼女ははげしくおびえて、顔が死人のようになった。彼女はその場からはね起き、わなわなとふるえて、彼を見つめた。しかし、すぐさま、一瞬のうちに彼女はすべてを理解した。彼女の目にかぎりもない幸福が輝きはじめた。彼女は理解したのだった。もう彼女にも一点の疑いもなかった。彼は彼女を愛している、かぎりもなく愛している、そして、とうとう、この瞬間がやって来たのだ・・・・・。(『罪と罰 下』(岩波文庫)より)

 

ここの部分を読んで、説教の中でたびたび聞いてきた「キリストの前に立つことによって、人は初めて自分の罪を知ることができるのです」という言葉を思い浮かべた。

これまで、この言葉を聞くたびに、「抽象的でなんだかピンとこないなぁ」と思ってきたのだった。それなの、ここの部分を読んで真っ先に頭に思い浮かべたのは、この言葉だったのだ。

 

確かに、光に近づくと影は一層濃くなります。今まで見えなかったものが見えてきます。キリストの前に出ると、自分でも気づいていなかった罪が露わになります。

(中略)

 人は救いの希望のないところで罪と向かい合うことはできません。神の確かな愛と赦しがあるからこそ、人は自分の罪を認め、神へと立ち帰ることができます。よくある歴史の改ざん問題も、事実を認めると、自分たちの誇りが傷つき壊れてしまうので、向かい合うことを避けているのです。ただ神の救い、キリストの愛と赦しに満たされ導かれるとき、未来は開かれていくのです。

 エス キリストに出会うのでなければ、人は罪を知ることができません。神に導かれ、イエス キリストに出会い、その救いを知り、愛と赦しへと招かれるから、わたしたちは信じることへ、信じて大丈夫な神の国へ進み行くのです。

http://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/08/04/213418

 

 

夫はこの言葉を、カルヴァンキリスト教綱要』(ここは最初『信仰の手引き』と書いていたのだが、記憶違いのようだ。この頃本当に記憶が危うくなってきている。大変!)を元にして語っていると言った。

ドストエフスキーはカルヴィニストではない。ロシア正教だと思うが、聖書によって同じ真理へと導かれるのは当たり前なので不思議でもなんでもないことだ。

 

と、私がここで書くということは、ソーニャをキリストとして描いている、と言っていることになる。

 

訳者の江川卓氏は解説で、『罪と罰』は「読者の好みに応じて、社会小説としても、推理小説としても、恋愛小説としても、思想小説としても、いかようにも読むことのできる、世界文学史上でもめずらしい作品である」と記しているが、確かにそうなのだろうと思う。

 

そこで私は私の読み取ったものを書こうと思う。

この前のところで、ラスコーリニコフの心情は次のように説明されている。

 では、何なのか? 彼はソーニャにたいしてさえ自分を恥じ、そのためにかえって粗暴な、軽蔑的な態度をとって彼女を苦しめた。しかし彼が恥じたのは剃られた頭や足枷ではなかった。彼の誇りがひどく傷つけられたのだった。彼が病に倒れたのも、この傷つけられた誇りのためであった。ああ、もしも自分で自分の罪を認めることができるのだったら、彼はどんなにか幸福だったろう! そうなれば彼はすべてを、恥じも恥辱も耐え忍んだことだろう。しかし、彼はきびしく自分を裁きはしたが、彼の激した良心は、だれにでもありがちなただの失敗以外、自分の過去にとりたてて恐ろしい罪をひとつとして見出すことができなかった。彼が恥じたのは、ほかでもない、彼、ラスコーリニコフが、何か盲目的な運命の判決によって、こうまで盲目に、希望もなく、むだに、おろかに身を滅ぼし、いくらかでも心の安らぎを得ようとすれば、その何かの判決の「無意味さ」におとなしく従い、屈服しなければならないということであった。

(中略)

 せめて運命が彼に悔恨をでも贈ってくれたなら、心を打ちくだき、眠りをうばい、そのあまりの苦痛に首吊り縄や深淵が目先にちらつくほどの、焼きつけるような悔恨を贈ってくれたなら! ああ、彼はそれをよろこんだことだろう! 苦痛と涙―――これもまた生ではないか。しかし彼は、自分の犯行を悔いようとはしなかった。(『罪と罰 下』)

 

二人の人間を殺して、「悔いる」ということができないでいるのだ。

 

先日説教者交代で来て下さった牧師は、「悔い改める」という訳は訳しすぎなんです、だから「シューブ(帰る)」なのだとおっしゃっていたが、悔い改めるというようなことは人間の力では出来ないことなのだ、ということを思わされたのだった。

 

自分の罪を理解する、認めるというのは、外からの圧倒的な力によって一瞬のうちに身に起こるようなことなのかもしれない、と冒頭に引用した場面(「どうしてそうなったのか、彼は自分でも知らなかった。ただ、ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた。彼は泣きながら、彼女の両膝を抱えた」)を読んで思ったのである。

 

では、そのソーニャがどうしてキリストとして描かれていると思ったかは、また引用が長くなるので次回にしよう。

 

myrtus77.hatenablog.com

 

 

この時、ペテロは何も悪いことはしていません。けれど、「私は罪深い者です」と告白しています。(略)恵みを受けて罪を知りました。(抜粋)
https://www.youtube.com/watch?v=ZaEiKr84ShA&t=1194s