風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

禁断の果実はリンゴなんかじゃない!


● 創造からバベルまで・・・? 善悪の知識の木
 
哀しみの中に香れり過ぎし日のわが幸福の林檎の香り
桃が来て梨が届いて林檎で終わる エデンの果実は林檎にあらず
原子力取りて喰らふも自由なれど神は置きたり真中に果実を
聖書(みふみ)こそ取りて自由を謳歌せよ神の創造(つく)りし林檎は美(うま)

「本当に神がいるなら、こんな酷い世の中にはしなかったと思う」などと他人(ひと)は言う。キリスト教徒の私もたまに、「どうしてこんなことになさったのですか!」などと神に向かってくってかかることがある。だがそのすぐ後に、「原子力を勝手に引っぱり出して利用したのは人間なんだよ!神じゃない!何でもかんでも神様のせいにするんじゃないよ!」と、あらぬかたへと吠えたりなんかして、全くクリスチャンというのは因果な商売だ。そういうと娘が、「えっ、商売なの?」と聞く。「商売だよ、私の場合は。お父さんは牧師をして、それで私らは食べさせて貰ってるんだから」と私。最近娘は働きに出かけているので、家の中で食べさせて貰ってるのは私一人だから、余計、商売には精出さなきゃ、ね。


その果実アダム取りける わたしらが取りしは別の果実なりけむ

私たちは、アダムの犯した罪など自分には関係ないと思いたがるのだ。しかし・・。

聖書の出来事は必ずある時代背景を持つ。しかしまさにそこに聖書の意義がある。つまりたとえば人間の生に言及し世俗化した歴史の中で語ることで、曲がりなりにも人間の生の臨界に触れるのである。どの時代に生きようとも、人間には変わらない臨界、境界がある。人間の中には、共通の現象、変化しないもの、社会的経済的プロセスにも影響されないものがある。人間の歴史はなんらかの形で絶えず同じ問題に言及する。どのような歴史的変化が生じようとも、人間の状況は同じままである。私たちの状況はアダムの状況と似たようなものなのである。そして、歴史的生について私たちに語る聖書は、歴史の経過の背後に留まるもの、変わらないものを絶えず指摘するのである。(フロマートカ=著『神学入門』(新教出版社)より)


● リンゴペクチンがセシウム排泄に役立つ
 リンゴペクチンは、最初に書いたように重金属を体外に排泄する効果があるので、からだに必要な微量金属もいっしょに排出してしまうようです。微量金属とは、「….微量であるが生体が摂取しないと障害が現れる元素.鉄,銅,亜鉛マンガン,…など」です。
 ですから、くれぐれも守っていただきたいのは、服用方法です。…、そのあと3週間続けたからといってさらにその30%排泄されるというものでもないということです。(抜粋引用)
私が体を壊したのは、娘のアトピーが判明してアトピー本を読んで恐怖に駆られ授乳期に無理な除去食をしたためだ。急激に体重が減少したために自律神経を損なった。アマニ油やオートミールに関連して私もブログに書いたが、上にリンクした記事にも書かれているように、放射能除去のために良いと言われているものが同時に必須栄養素も損なうということがあるということを頭に入れて置く必要がある。リンゴペクチン摂取は一つの方法だと思うが、それだけに頼れば別の不具合が生じる可能性がある。そして無闇に恐怖心を煽れば事態をさらに悪くするということを分かっていなければならないと思う。


終はりかけの黄の彼岸花咲き残るかたはらにひとつ輝ける赤