ナイアシン含有の高いものばかりを摂っていると銅が皮膚の方にばかり使われて精神の元気が出ないと思い、銅を摂れる食材はどれだろうと考えた。それで、食品の栄養素の含有を見て解るように図に表してみた。亜鉛と銅の含有比も計算してみた。そして、これをもっと早くにやっておくべきだったと思った。
肉類では、亜鉛の量が銅との理想比率をはるかに上回っている。特に牛肉、豚肉で高く、銅との比率で言えば牛肉は凄まじい値になっている。これでは、銅が損なわれる等と呑気に言っているレベルではない。
亜鉛投与で病気を治療する医療サイトに、「タンパク質の合成を促すという亜鉛の性質に目をつけた酪農家たちが、牛や豚などの食用家畜のエサとして使ってきたという歴史もあります」と書かれていたが、こういったことがこの値に出ていると言えるように思う。数年前に狂牛病が流行った時、牛の餌に肉骨粉を与えているということが問題になっていたが、家畜などは自然の物とは言えないわけだ。
鶏ささみ肉では亜鉛、銅の含有は低くなるが、ナイアシンが高いため皮膚を造るのには良いが、他のところに銅を使えないということが起こってくるように思う。
卵では、卵黄だけだと亜鉛の含有がとても高くなるが、全卵となると抑えられる。成分表を見ているとこういった不思議だと思えることが沢山ある。パントテン酸量は生より焼く方が増えるとか、生の大根と比べると干した大根のカルシウム量が半端なく高いだとか・・。こういったことから、卵黄だけだとちょっと難しいけれど全卵なら他の食材との組み合わせによって使えるかもしれない、と献立を考えるヒントになる。
亜鉛の量が高いと思っていた納豆を調べて見ると、銅との比率で言えば、銅不足の人間にはとても良い食材であることが解った。しかもナイアシン含有が低い。つまり銅を主に摂りたい時には納豆は良い食材だと言える。
このことから解ったことがある。しばらく前から、銅の値で言えば私より娘の方が高いのではないかと思っていたのだった。私の髪の色は真っ黒ではない。若い頃からどちらかというと少し茶色がかっている方だった。娘の髪の色は生まれた時から黒が強い。だから銅も亜鉛も高い値にあるのではないかと思っていた。そのことが納豆に含まれる栄養素を見て解った。私は結婚するまで納豆は食べたことがなかったのだ。食卓に納豆は欠かせないという人と結婚したので結婚してから食べるようになったが、それでも自ら進んでたくさん食べはしない。けれど娘には小さい頃から食べさせていた。パンにスライスチーズをのせてその上に納豆をのせて朝食でも食べさせていた。私は朝食は摂らない。
考えてみれば、基本的に夕食は納豆と魚とお味噌汁で、お肉類は昼食(お弁当)で摂るというパターンだった。けれど、一人暮らしの頃の娘は魚を食べることはあまりなかったようだ。一人暮らしの都会で魚を焼いて食べるとかお刺身でもそうだと思うが、なかなか難しそうだ。けれど、納豆と青魚の組み合わせは亜鉛も銅もナイアシンも丁度良く摂れそうであるから皮膚のためにも精神の健康のためにも良さそうな気がする。
さんまは、市販の蒲焼きでは微妙に成分配合が変わってくるかも知れないが、ナイアシンが高く、銅も多い。納豆との組み合わせでは皮膚を造るのに良いかも知れない。小鉢の中は人参、ピーマン、ナスと前日の餃子の残りの豚挽肉少量を炒めたもの。豆腐のメカブ添え。
写真のお刺身はかんぱち。かんぱちはブリの仲間のようだが、旬は夏のようだ。亜鉛の含有はブリ、ハマチと同じだが銅の値が低い。亜鉛と銅の比率はちょっと良くないが少量なので良いことにした。
ヒジキの煮物はこれまでは油揚げと煮ることが多かったのだが、油揚げにはマンガンが多く銅を損なうので、ナイアシンの多い鶏むね挽肉と組み合わせて皮膚を造らせるようにする。しいたけにはビタミンB2が多い。人参にはビタミンAとなるカロチンが多いが亜鉛はビタミンAの代謝に使われるのでヒジキと人参の組み合わせは良いように思う。ビタミンAは皮膚を造るビタミンでもある。
肉類を食べる場合は野菜を多く摂る方が良いと言われるのだが、銅のことを考えれば、野菜を多く摂りすぎても銅が損なわれる可能性がある。マンガンは野菜に多いので、含有の少ないものを選んでも種類が多くなり量も増えれば総量としてのマンガン値が高くなり、亜鉛と共に銅をますます損なうことになるので気を付けなくてはいけない。これまではお味噌汁は具だくさんにしてお味噌汁で野菜を摂ろうと考えていたのだが、ちょっと方向転換して・・。体内が酸性に傾かないようにするためには、野菜より海草類を摂る方が効果的なようだ。
以下はリンク
● ”ジャンル”で固定できない物づくり、対話、人間関係
色々な知識情報を固定的に扱うのではなく、深く考えをめぐらせながら、再認識、再解釈していこうとする精神の衝動が芽生える。・・。
わけのわからないカオスのなかから、新しい思考が立ち上がってくるような予感だけでも感じとれれば、対話は成就した、という気持ちになる。