風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「愛したい!愛したい!」という叫び

 

私はどうして『カラマーゾフの兄弟』は没頭して読むことができたのだろうか。

それは、この小説の中から、「愛せない!愛せない!」という無数の叫びが溢れ出していたからなのだ。否!「愛したい!愛したい!」という無数の叫びが。

それはドストエフスキーの叫びであり、私自身の叫びであった。

 

私はかつてこんなことをブログに書いた。

 

説教の中には、「信じたい、信じたい」という悲鳴のように聞こえるものがある、とふと思った。信じられないのだな、と思う。

しかし「愛せない、愛したい」というのと「信じられない、信じたい」というのは、進んでいく先が真逆になるように思えた。

 

ドストエフスキーは、「愛したい、愛せない」というところから神へと辿り着いた。

 

その冬、ドストエフスキーは、肺病で死にかかっていた最初の妻マリヤの病床に、自身が痔疾と膀胱炎に悩まされながら、ほとんどつききりで看護にあたり、かたわら『地下室の手記』の執筆を進めていた。マリヤは、『手記』の第二部がまだ完成していなかった四月十六日、世を去った。その日の日記にドストエフスキーは次のように記している。

「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」(ドストエフスキー地下室の手記』(新潮文庫)訳者、江川卓「あとがき」より)