風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

子ども達がパンとぶどうジュースに与るために(具体的な取り組み)

子ども達の陪餐の真似事についてもう少し詳しく記録しておこう。

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「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(マルコ福音書14:24)

先ず、配餐用のトレー代わりにケーキの焼き型等を用意する。ぶどうジュースのカップは、果実酒の空き壜を利用。これは結構厚手の硝子なので落としても割れなさそう。落としたことないから分からないけど?

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エスは…言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。(マタイ福音書26:26)

以前いた教会では、配餐のトレーに静かに忍び寄りぶどうジュースに手を伸ばした子どもが居たので、陪餐の真似事が始まった(笑)。この子は2歳半だった。

自分および自分をとりまくものを2次元の対比においてとらえていく中で相互の関係を知り、まとまりをつくり、それが2語文、3語文の内容になり、さらに2語文、3語文の使用がまた新しい関係を知ることになり始めていく、これが2歳後半の特徴です。これにかんして、人称代名詞をはっきりわけて使う言語文化圏では、2歳前半までは1人称、2人称、3人称の混同が通常であり、2歳後半から自分を1人称で言うようになり始めることが報告されています。(田中昌人/田中杉恵=著『子どもの発達と診断3幼児期1』(大月書店)より)

陪餐の真似事を止める時期を、3歳の誕生日が過ぎた頃に設定した。

「大きくなったらね、3歳になったらね、お兄ちゃんになったら(この子にはちょうどその頃弟が出来た)、パンとジュースを我慢することが出来るようになるよ。○○おねえちゃん(うちの娘はこの頃中学生だった)もパンとジュースを飲まないで、食べないで我慢してるでしょう。だから、○○君も3歳になったら我慢できるようになるよ」、こういったことを繰り返し語って心の準備をさせて、3歳のお誕生日を過ぎてからは、すっぱりと陪餐の真似事をする必要はなくなった。

この時はそのようにしたのだが、しかし私は、3歳になったら止めるという必要もないのではないかと考えている。

エスが五千人の人々にパンを分け与えられた時に、「彼らの望むだけ分け与えられた」(ヨハネによる福音書6:11)と聖書が記しているように、子ども達が望むだけ陪餐の真似事をすれば良いのではないかと本当は思っている。

 

ところで、ちょっとずれるが、聖餐のぶどう酒はジュースでは駄目だという牧師がいるなら、律法主義だと言わざるを得ない。もし私の夫がそういう風に言うなら、私は断固反対するだろう。それが妻の務めだと思っている。

前の教会では、週日の夜にアルコール依存症からの自助グループの集会に会堂を貸していたが、こういう人たちのことを考えれば、ぶどう酒には拘らないはずである。今の時代はまたアレルギーの問題もある。依存症でなくてもアルコールに弱い人も中にはいるだろう。そういう人達のことを考えれば、イエスなら最後の晩餐もきっとパンとぶどうジュースにしたに違いない。

 

全ての事は、どうすることが愛する(他者を大切にする)ことになるのかという観点から考えるべきなのである。

つまり、愛である神、キリスト・イエスならどうなさるかというところに立って考えるということなのだと思う。

愛を追い求めなさい。(コリントの信徒への手紙一14:1)

 バルトが赴任するよりも前、十九世紀末にザーフェンヴィルに初めて牧師館が建てられました。工場主の一人が、学校の校舎を牧師館に改装したのです。「牧師先生」がキリスト教の教えを通して、住民を自らの境遇にーー貧困層はおのれの境遇に、富裕層はおのれの境遇にーー納得させ順応させてくれることを期待したのでしょう。(略)工場労働者たちは乏しい給料で、週六日、一日十二時間働いていました。
 しかしバルトが赴任したことによって、この工場経営者たちの期待は打ち砕かれました。なぜかと言えば、この新しい牧師は、多くの貧しい抑圧された人々の側に立って…。工場主のヒュッシーの従兄弟はバルトに抗議して、教会の役員を辞任しました。もう一人の工場主ホリフも教会から脱会しました。さらに「敬虔主義者(ピエティスト)」と呼ばれる信者たちもバルトに抗議しました。
 バルトにとって重要なことは、労働者に対して観念を説くことではなく、また彼らを教会に通わせることでもありませんでした。バルトは労働者たちに自らの権利がなんであるか、また相互の連帯はどのように可能か、どうやって選挙に参加すべきか、あるいはアルコールをいかに節制すべきか等々といった、きわめて現実的で実践的なアドバイスを与えたのです。(福嶋揚=著『カール・バルト 未来学としての神学』(日本キリスト教団出版局)より)