風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」(ルカによる福音書23:31)


● 対岸の火事と見てよいのか
安倍政権が、共産党を破壊防止法の調査対象と見なしていると閣議決定したというニュースを知りました。…。
マルチン・ニーメラー牧師の告白
 ナチス共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。
(中略)
 それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安を感じましたが、それでもなお行動にでることはなかった。
 それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。
(抜粋引用)

ルカによる福音書23:26~49からの説教抜粋

 イエスは十字架に付けられるため、刑場に向かいます。途中、イエスを連行するローマ兵たちは、シモンというクレネ人にイエスの十字架を負わせます。イエスが自分で十字架を運べなくなったからです。

 大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行きました。イエスは女たちの方に振りむいて言われます。エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう。」(28〜31節)

 生木とは生きている木、イエスのことです。枯れ木とは、罪によって死んでいる罪人のことです。命であるイエスがこのように十字架を負わねばならないとするなら、裁かれるべき罪人たちは一体どうなるのか、ということです。罪人たちに裁きが臨むとき、その時には生きていることが不幸としか思えないような裁きが臨む。だから、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい、と言われたのです。実は、罪人は罪の重さも、罪に対する裁きの悲惨さも知らないのです。



しかられておまへが泣けば壁の絵の聖き幼な子も一緒に泣くよ  高尾文子『約束の地まで』
さらさらのうなゐ髪リボンを結びやる原子炉の風吹きくる朝も