風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

池谷裕二=著『記憶力を強くする』から考える*繋げる力*


大阪大学コミュニケーションデザイン・センター外部評価報告書
「対話的・双方向的な教育活動というのは、臨機応変にあらゆる素材を教育的に活用できる教員の属人的資質に依存しており、この資質もまたマニュアル化することも、体系的に教育することもできないタイプの知的能力である。日本の大学教育はこういうタイプの知力を開発するプログラムを有していない。これもまたどうやってその任に堪える教員を継続的に供給するのかということが問題になる」

 歳をとっても記憶がまったく変わらないのかというと、もちろん、そういうわけではありません。それは、記憶にはさまざまな種類があって、しかも、そのおのおのが人の成長と密接に関連しているからです。・・記憶は階層を作っています。そして、この階層は成長とともに少しずつ形成されます。たとえば、若いころは意味記憶(知識の記憶力)がよく発達していますが、最上階にあるエピソード記憶は、ある程度の年齢に達しないと完成されません。
 小学校では一〇歳になる前に、掛け算表の「九九」を教えますが、これは、意味記憶がよく発達しているこの時期を狙って暗記させようという意図なのです。この頃の子供は、論理めいたことでなく、むしろ意味のない文字や絵や音に対して絶大な記憶力を発揮します。逆に、中学生になる頃にはエピソード記憶が完成され、論理だった記憶力が発達してきます。ですから、成長してから九九を覚えるのは至難の業なのです。
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 こうして考えると、記憶するときにはその年齢に見合った記憶の仕方があることがわかります。・・。たとえば、中学生のころまでは、意味記憶の能力がまだ高いですから、試験内容を「丸暗記」してテストに臨むという無謀な作戦でもなんとかなります。しかし、この年齢を越えたころから、少しずつエピソード記憶が優勢になってきますので、これまでのような丸暗記作戦では、いずれ通用しなくなります。
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 歳をとって、エピソード記憶が発達してくると、丸暗記よりも、むしろ論理だった記憶能力がよく発達してきます。ものごとをよく理解して、その理屈を覚えるという能力です。・・。
 もちろん、論理だった記憶方法は、学校の勉強のためだけに有用なわけではありません。なぜなら、丸暗記は覚えた範囲の限られた知識にしか役立ちませんが、理論や理屈を覚えると、その論理が根底にあるすべての事象に活用できるのです。したがって、同じ記憶量でも、理論的な記憶のほうが高い有用性を発揮します。いうまでもなく、日常生活においても、これは応用範囲の広い記憶方法です。
                   (池谷裕二=著『記憶力を強くする』(講談社)より)

上にリンクした記事を拝見して、池谷先生のこの本のここの部分を思い出した。

上記リンク記事の中に記されている「対話的・双方向的な教育活動というのは、臨機応変にあらゆる素材を教育的に活用できる教員の属人的資質に依存しており、この資質もまたマニュアル化することも、体系的に教育することもできないタイプの知的能力である。日本の大学教育はこういうタイプの知力を開発するプログラムを有していない。これもまたどうやってその任に堪える教員を継続的に供給するのかということが問題になる」という問題への答が、この本のこの部分に記されていると思ったのだ。

つまり、臨機応変にあらゆる素材を教育的に活用できる」能力は、エピソード記憶の発達と共に発達する能力であると思われる。故に、大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの教員はある程度年齢を重ねた人々の中から起用するのが望ましいと思える。先ず、採用年齢を50歳から上にしてみてはどうかしら?(笑)