風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『アンネの伝記』から『みどりのゆび』へ

以前、こんな本の紹介文を書いた。



アンネ・フランク作『アンネの童話集』

 4年生の頃,学校の図書室でアンネの伝記を読んだ娘は「どうしてユダヤ人ってあんなにいじめられなきゃならなかったんだろう」と物思いに暗く沈んでいたことがあった。子どもだって物思いに沈むことがあるのだ。
 私達キリスト者にとってユダヤ人問題は避けて通れない事柄だ。けれど,そのアンネの伝記ではなく,アンネの日記でもなく,アンネの童話集を私は紹介したいと思う。
 私が持っているのは,1987年に小学館から発行された初版第一刷のものだ。『アンネの日記』も,家族の中でただ一人生き残った父親のオットー・フランクの手によって世に出されたという事だが,この本の初めにも「日本のみなさんへ」というオットー・フランクの文章が載せられている。その中に、隠れ家生活で外界の習慣や生活を忘れてしまったアンネが創作に苦心していたということが書かれている。牧野鈴子さんの挿し絵が施された、木島和子さんの訳によるこの本はすでに絶版となっているが、それでも紹介しようとするのは、この童話集にアンネの見ていた夢があふれていると思うからだ。そして、子ども達が夢を持つことの大切さを痛感するからだ。
 リタ、イヴ、キティ、キャッシー、クリスタ、自分と同じ位の年齢の様々なタイプの少女を描きながら、アンネはその少女たちの成長していった未来に自分の未来を重ね合わせていたのではないだろうか?活発で夢見がちな「キティ」の最後は「キティ!いったいどこへいっていたの、そんなところにすわって、夢でもみていたんでしょ?さぁ、早く、おやすみなさい!」というお母さんの声に、「せっかく、キラキラと輝くような未来を夢みていたのに、とんだじゃまがはいってしまったわ!」というキティの心の声で終わっている。
 又、母親からも友達からもいじめられていたキャッシーは友達にはおかしを、母親には銀製の指ぬきを買ってプレゼントしようとするが、帰り道、お菓子だけを取り上げられて友達から仲間外れにされる。草むらで泣きくずれていたキャッシーのバスケットからは指ぬきが落ちてしまう。このお話は最後まで救われない気がする。けれど、「草むらの、とある所で、指ぬきが、キラッと光りました」という最後の一文にアンネの未来への希望が託されているようだ。
 「恐怖」という短いお話の中に「戦争が終わった今でも、あの時の私のように、まだびくびくしながら、毎日を送っている人はいるでしょう。そういう人はだれでも、大自然をみつめてください」という文章が出てくる。これはアウシュビッツ収容所に送られる4ヶ月ほど前に書かれたものだ。隠れ家生活のただ中で、まさに迫害の恐怖が迫り来るただ中で書かれたものなのである。ここに、戦争のない未来を希求してひたすら生き抜こうとしたアンネの姿が表されていると思う。
 このアンネの童話集は、今、中川李枝子さんの訳で『アンネの童話』として文春文庫から出ているようだ(残念ながら今ではこの本も絶版となっている)。どうか、多くの方が手に取って下さるように。そして、次の世代に手渡して下さるように。
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こちらは、『アンネの青春ノート』



それから、こんな本の紹介文も書いた。

モーリス・ドリュオン作『みどりのゆび』(岩波少年文庫

 アンネの伝記を読んだ小学4年の娘は「ユダヤ人って、どうしてあんなにいじめられなきゃいけなかったんだろう」と暗く沈んでいたのだった。4年生というのは難しい年令だと思う。9,10才頃から人は科学的、客観的に物事をとらえ始めると言われている。今までのように夢の中にばかりは居られないで、現実の世界が少しずつ見え始めてくる。現実を見つめることは大事だ。けれど、その現実に向かう力はまだ十分ではないのだ。そんな時には、もう一度ファンタジーの世界に引き戻してやりたいと思う。その頃に読み聞かせた本を紹介しよう。モーリス・ドリュオン作『みどりのゆび』。
 チト少年は、種に触れただけで花を咲かせることの出来る親指を持っている。これは、父親の工場で作っている鉄砲や大砲に花を咲かせてしまった少年のお話だ。
学校にあがったけれど、すぐに家に帰されてしまったチトを心配したお父さんは、庭師のムスターシュおじいさんとお父さんの工場の監督をしているかみなりおじさんをチトの教育係にした。かみなりおじさんについて町のあらゆる所を回ったチトは、あらゆる所に花を咲かせてしまう。刑務所、貧民街、病院、ライオンの檻の中。そして、ある時、チトはかみなりおじさんに戦争について尋ねる。このお話はファンタジーだが、戦争に対する大人の矛盾した考えや作者の思想が表されている。庭師のムスターシュおじいさんはチトの導き手として描かれ、重要な存在だ。そうしてチトは父親を兵器商人から花作り工場の社長にかえてしまうのだ。どんなに世の中が複雑であろうと、私もこの庭師のように「(戦争?)私は反対だ」と、子ども達にはっきりと言える大人でありたいと願う。
 娘もこのお話をとても喜んで聞いていた。ところが、最後まで読み終えたとき、娘は「最後の最後でこのお話は丸つぶれになった!」と喚いた。その最後の最後とはこういう展開だ。(以下、激しくネタバレしているので、この先ご注意!)チトは、亡くなったムスターシュおじいさんを追って、木と植物で作った梯を昇っていく。そして、牧場には子馬の食べた草のあとに咲いた、金色の花で書かれた言葉が残っていた。「チトは天使でした!」と。 娘はチトが天使だったという結末に納得がいかなかったのだと思う。戦争を止めさせたのが、天使なんかではなくて、普通の子ども(種に触れると花が咲く指を持った子どもが普通であるとは思えないが、)であって欲しかったのだと思う。そうすれば、自分たち子どもにだって本当に戦争をやめさせることが出来ると思えたのではないだろうか。
 それにしても、大砲から花が飛び出して敵に向かって飛んでいったらどんなに素敵なことかと思う。本当にそんなふうにして世界で今おこなわれている戦争を止めさせることができたら・・。けれど、私は思う。夢見る力は信じられない方法で信じられない事を実現してしまうのではないかと。子ども達をそんな不思議な力を持った未来の大人に育てられたら、と思うのだ。

本を読み聞かせることは、私にとっては、子どもを愛するための一つの武器だったと思う。罪に堕ちて愛することが出来なくなってしまったこの世にあっては、素手で愛そうとしてもたちまち敗北してしまうだろう。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソの信徒への手紙6:14〜18)