風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「はだしのゲン」貸し出し禁止要請と従軍慰安婦問題

8月17日土曜日の新聞の24面に、松江市の市教委が市内の全小中学校にはだしのゲンの貸し出し禁止要請を出していたという記事が載っていた。映画『図書館戦争』(原作=有川浩で描かれているような戦争が実際に勃発しそうな気配を感じる。

私はこれまで、子ども達に原爆を扱ったものは読み聞かせないようにしてきた。それは、戦争について被害者意識に立って語り伝えたくないと考えたからだ。自分たちの受けた被害を訴え始めるなら、それは不毛な論争で終わるしかない。だから私ははだしのゲンは読んでいないし、そこにどのような事が描かれているのかも知らない。しかし今回のこの新聞記事については取り上げないわけにはいかないと思った。

先ず引っかかったのは、松江市では昨年8月、市民から『間違った歴史認識を植え付ける』として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に提出された」という部分だ。今生きている人間のいったい誰がそこに描かれていることが間違っている等と言えるのか!あなたはその場にいて、そこで起こった一部始終を見ていたとでも言うのか!はだしのゲンの中で描かれているようなことは起こらなかったと断言できるとでも思っているのか!と私は問いたい。

しばらく前の新聞には、慰安所で働いていた男性の日記が韓国で見つかったという記事も載っていた。この記事には、神戸大教授木村幹氏の「『第三者』の記録だから客観性が高い」という内容のコメントと、ソウル大名誉教授アンビョンジク氏の「組織的な戦時動員の一環として慰安婦が集められたことを示している」ただ、「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的になかったはずだ」という内容のコメントが載せられていた。

慰安所の設置に日本軍が関わっていたのなら、それをはっきりさせて賠償するほうが良いだろう」と言う人がいるが、私は、そのような考えは欺瞞にすぎないと思う。体の良い言葉で慰安婦問題の本質を逸らそうとしているに過ぎないのだ、と思う。中には、賠償金欲しさに慰安婦として名乗りをあげた人もいるかも知れない。もしかしたら、ほとんどがそうであるかも知れない。けれど、そういったことを誰がどうやって証明できるというのか!思い出したくもない慰安婦としての体験を語ってくれと要請されて記憶の片隅から引きずり出すようにして語った人にとっては、それが日本軍の指令によったものかどうか等どうでも良いことであろうと思う。幼くして連行されたのであれば、それが人攫いによるものであったのか日本軍によるものであったか等知るよしもないだろう。しかも数十年前の蘇らせたくない記憶を辿るのであれば尚のことである。しかし、その人にとっては、相変わらずそこに紛れもなく慰安婦として生きたという半生が横たわっているのである。

「間違った歴史認識」かどうか証明も出来ない者が、「間違った歴史認識を植え付ける」等と思い上がった言葉を口にするな!と私は言いたい。

曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。(箴言4:24)


はだしのゲンの記事について次に引っかかったのは以下のような個所だった。

 同12月の本会議で全会一致で不採択となったが、市教委が漫画の内容を改めて確認。「首を切ったり、女性への乱暴シーンが小中学生には過激」と判断し、その月の校長会でゲンを閉架措置とし、できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。
ここに書かれている事柄は「誇り」といったことに関わっている。私たちは、アメリカに「原爆を投下された」という事実は受け入れられるが、日本人がしたことは認められないのである。日本人としての誇りが傷つくからだ。「誇り」というものは厄介なものだ。誇りを持たなければ人は生きていくことが出来ないのではないか、と思う。

では、私たちはどこに誇りを見出していけば良いのか。聖書は、「誇る者は主を誇るべきである」(コリント人への第二の手紙10:17)と語っているが・・。