風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「脱原発は選択の問題ではなく、不可避の現実である」田坂広志氏自由報道協会会見

この記事は、みんな楽しくHappy♡がいい♪ 2011年3月11日。その後私は変わりました。さんが音源から書き起こされたものです。
「みんな楽しくHappy♡がいい♪」さんの労に敬意を表して、この記事を掲載させていただきます。

以下、田坂広志氏会見内容。

私もまず最初に自由報道協会の方にお礼を申し上げたいと思います。
私自身、あんまりこういうところにしゃしゃり出てくるような、話をなんですけれども、
今、日本で原子力の話がいろんな形で言われている訳ですが、
ほぼ、わたしの目で見る限り、極めて重要なことは、あまり議論されていないという印象があります。
メディアの方には一人一人いろいろとお話をするようにしているんですが、
やはり何かの理由があるのかもしれませんが、
原子力の問題で根本の問題に触れないような論調が多いように思われます。

そんな事を感じていました矢先に、自由報道協会の方から、
こういう場を使って何かのメッセージを出したらどうかという、
そんなお誘いをいただきましたので、
本当に感謝を申し上げながら、この場を務めさせていただくことにいたします。

私の経歴などについては今ご紹介を、
少し身に余るようなご紹介も含めて頂きましたので、本題に入ってまいりたいと思います。

で、私自身の経歴で、もう一回だけ申し上げておきたいのは、
私は原子力の、いわゆる原子力ムラと言われるところを。ま、20年間歩んだ人間です。
これはもう、隠しようのない現実の私の経歴になって残っていることですので、1970年に大学に入り、71年から原子力工学科に進学を決め、
そして、後に国立研究所に、アメリカの国立研究所に行くこともあり、勤める事もありましたが、
民間企業でのいろいろな原子力のプロジェクトにも携わって、
91年にその世界から、ま、離れたわけです。

離れた訳というのは、決して原子力について極めて強い批判を感じたからではない。
これも正直に申し上げておきます。

むしろ、自分のやるべきことはもうやった。
後輩の皆さんが本当に優秀な方々がいらっしゃるので、
これからは世界で最も安全な原子力を実現してもらいたいという気持ちを持ち、
同時に私自身、それ以外の自分で取り組んでみたいシンクタンクという、
やりがいのある仕事がありましたので、そちらに向かったわけです。
これが91年ごろですね。

そしてこの20という数字に意味があるのか分かりませんが、
20年原子力ムラで勤めた人間が、働いた人間が、
20年離れて、2011年、何故かまた原子力の世界に戻ることになってしまったわけです。

私はこの事故が無ければ、
かりにそれなりの高い立場、たとえば原子力委員長とか、そういう立場でお誘いいただいたとしても、
戻る事はなかった人間かと思います。

ただ、あの3月11日の事故の後、
一人の市民としてまずはあの事故を見ながら、
「なぜSPEEDIが動かないか?」
実は、SPEEDIのような環境安全に関わるシュミレーションは私の専門でもありましたので、
あのSPEEDIをかいするために、ま、国費を何百億円も使い、何年もの歳月を使って作ったものが、
一番必要な時に動かないという現実も見ながら、
本当に福島の方々の事にも、やはり、これはどうなっていくんだろうか?という思いながら、
外から政府に対しては、いくつかの提言をしておりましたが、

結局29日、内閣官房参与として、政府の仕事を手伝う。というよりももう、
東京電力経産省保安院そして官邸。
この方々とこの事故対策に取り組むという日々が始まったわけです。

で、5カ月と5日勤めて内閣総辞職とともに内閣官房参与を辞任する事になりましたが、
5か月の前半は、やはりこの事故対策、
やはり事故対策だけではもう、私自身が進めるべきことは十分ではない、
原子力行政の改革にも取り組むことになり、
さらには原子力政策、現在話題になっている原子力脱原発依存という、
こういう政策論にも関わることになったわけです。

で、まぁこういう立場の人間ですので、
原子力ムラの裏も表も、率直に申し上げればよく分かっております。

その意味では、
何か運命的にこの世界に戻って原子力行政と原子力産業の改革という事を論じざるを得なくなった時に、
かつて私が見てきたことが何かの意味があるんだろうと思って、
今、ささやかな活動をしております。

とはいえ、僕の経歴はもう十分にご理解いただいたと思うので、
実は今日申し上げたい事、時間さえあれば、もう、いくつもありますが、
今日はたった一つ、是非とも多くの国民の方々に伝えていただきたい事を中心にお話をしたいと思います。

最初に結論を申し上げます。
よくこの間に政府が、原発ゼロ社会、30年代という事も述べて、
いろんな意見を、批判もあるようですが、
いずれにしても原発ゼロ社会を目指すというビジョンを出したわけです。

で、この原発ゼロ社会というものについての論調がですね、
今回閣議決定がされなかった事がどうかという次元の話はさておいてですね、

私が一番気になるのは、
原発ゼロ社会はみなさん選ぶんですか?という論調が今非常に広がっています。
特に原発を推進するという立場の方々から、
原発ゼロ社会などを選んだら、この国の経済はおかしくなりますよ」
「電力料金は2倍になるし、雇用も減るし、海外に企業が行ってしまいますよ」みたいな事をおっしゃいます。
この議論が正しいかどうか?という事をも、ま、あるんですけれども、


それ以前に私が一番申し上げたいのは、
今この時点に於いて原発ゼロ社会というのは、
政策的な選択の問題ではありません。

つまり、ゼロ社会を選ぶんですか?選ばないんですか?という選択問題ではありません。
これは不可避の現実だという事を申し上げています。

つまり、立場が推進であろうが反対であろうが、
なんであろうが関係なくやってくる、
もう避けることができない現実になっているんだという事を
一人でも多くの国民の方に理解していただきたいと思います。

先ほど申し上げたように私は原子力の世界を歩んだ人間です。
特に感情的に原子力をつぶしたいと思っている人間でもありません。


ただですね、専門家として、今現実のこの状況を見た時に、
もう原発は推進反対に関係なく、
必ず止めざるを得なくなっている状況になっているという事を、
まず、直視するべきだと思います。

よく、原発脱原発の議論に対して、
「そういう非現実的な話しはおかしい」という方がいらっしゃいますが、
いったい誰が非現実的であるか?という事も少し考えてみる必要があると思います。

今、全ての国民、そして政治家、官僚、財界の方が直視しなければいけない現実を見ていないのは、
むしろ、もしかしたら財界の方や行政の方ではないのかという印象が私の中にはあります。

その事を申し上げたうえで今から、短い時間ですので、ポイントを申し上げたいと思います。


原発の未来をめぐる7つの誤解」と、あえてつけさせていただきました。

第一の誤解。
この話は今要点を申し上げましたが、ここに書いてあるのは誤解の認識です。
私の認識ではありませんが、よくこういう言葉を聞きます。

「福島の経験に学び、原発を世界でも最高の安全を実現しよう」と。
そうすれば原発は再稼働をし、今後も使っていけるというような論調ですね。

もしくはこういう言葉もよく聞きます。
「最近の原発は最高の安全対策が行われているんですよ」と。
「福島で原発事故を起こしたけれども、あれはまァ車に例えて言えばT型フォードのような古いタイプですよ」
と。
「今の世界の原発日本の原発最新鋭のものはフェラーリのように最先端の技術が使われていますよ」
ということがよく言わます

この事をもって先ほど申し上げたように
福島の経験に深く学んで最高の原発をつくっていけば、
「いやこれは使っていけるんだ」という論調があります。

ただここでですね、深く見つめておくことがあります。

「そもそも原発の安全性とは何か?」という事ですね。

というのは、良く総理も海外などのいろいろな場で、国際的な会合の場で、
「世界でも最高水準の安全性を実現する」というような事をおっしゃいます。
で、その考えは全く私も賛成です。

ただですね、ここで言う安全性の意味をすこーし誤解されているように思います。

原発の安全性というのは技術的な安全性だけではないんですね。

つまり、
津波対策はしっかりやりました。
さらには電源喪失についてもちゃんとバックアップをやりましたということをもって、
原発の安全性は極めて高いレベルになりました」ということは、
実は一面にしか過ぎないわけです。

本当の原発の安全性というのは、
人的・組織的・制度的・文化的安全性の事です。

これは、是非皆さんのような報道の立場に立たれる方に、
是非、世の中の常識として広めていただきたいと思うんです。


というのはですね、世界の原子力施設の事故というのは、私も専門ドクター論文を書くなかで、
これは随分学びました。

世界の原子力の事故の大半は、その原因は、ほとんどがヒューマンエラーなんですね。
一番最初の人身事故と言われるアイダホホールズのS1事故も含めて、
人間のヒューマンエラーです。

このヒューマンエラーというのは人間のミスだという事で、すぐに、まぁ
「だったら人災の訓練、スタッフの訓練をちゃんとやろう」みたいな話になる面もあるんですが、

実はヒューマンエラーと言われるものは、その背後にもっと広い問題が横たわっています。
これを私は人的組織的制度的文化的要因と呼んでいます。

で、一つの分かりやすい例を申し上げると、
分かりやすいというには少し辛い例なんですが、
JCOの臨界事故があったわけです。
これはもう皆さんご存じの世に東海村で臨界事故が起こった。

この施設で事故が起こった時、わたしは東京で仕事をしてたんですけど、
ある会合にあったんですが、
この事故の情報が届いた。
東海村のウラン転換工場で臨界事故が起こった」
聞いた瞬間に私はこう申し上げたんです。
これはもう忘れもしないですけれども、そこにいらした会合のメンバーに
「これは誤報です」と。

私は実はウラン転換工場と同じタイプの工場で働いていましたので、
その工場の設計についてもよく分かっております。
したがって、周りの方に申し上げたのは、
「これは誤報です、あの手の施設はもう、・・たとえば作業員が右に回すべきバブルを左に回したとか、
その程度の事で事故が起こらないように、臨界事故など絶対に起こらないように
そういう設計がなされているんです。だから、・・臨界事故というのは誤報です」と申し上げた。

ところが…事実はご存じのように、実は臨界事故が起こっていた訳です。

それをよく調べてみると、これも私は驚いたんですが、
ウラン溶液は本来タンクからタンクへパイプで送液しなければならないものをですね、
作業を急いだ作業員が何故かバケツで汲みあげて注ぎ込んだ訳です。
その瞬間にチェレンコフが見えたといいますから、紫色の光が見えた。
これが見えた方は本当にお気の毒ですが数時間で死亡します。
その死に方も人間の死に方としては一番辛い、全身の細胞が崩壊するような形で亡くなっていくわけです。

で、この悲劇については論じる場面ではありませんが、
何が問題か?と言えばですね、この作業員は、確かにエラーをしたわけです。
でもこの事が先ほどの人的組織的制度的文化歴問題に必ず繋がります。

単に「この作業員がミスをしてしまった、残念だな」では終わらない。
そもそもこの作業員に対する教育訓練はどうなっていたのか?
さらには監督責任者はどこにいたのか?という、人的組織的な問題になります。


さらには何故作業員がこれほど急がなければならないほど、
そういう雇用制度の問題は無かったのか?制度面ですね。
職場の安全文化はどうだったのか?こういう問題があるわけです。

したがって、皆さんに是非お願いしたいのは、
この福島の事故もですね、どうも世の中この1年半見ていると、
「安全か安全でないか?」という事を論ずるときにですね、
実は反対派の方も含めてですね、技術的な面のところで議論することが多いんです。

たとえば「電源対策はちゃんとできているか?」
これはもう、重要ですよ、もちろん。
津波対策は十分か?」
これも非常に重要ですが、
本当はもうひとつ非常に強い質問をしなければならないんです。

あれから1年半たって、あの福島の事故を起こした、
人為的組織的制度的文化的要因については、本当にきちっとこの解決策を取られたんですか?
ということですね。

これは、国会事故調査委員会が、福島の事故は人災だったという事をハッキリと指摘していますね。

この人災というのもどこかの政治家が一人、
何か間違った判断をしたという次元の話だけではないと思いますね。
むしろ、官僚機構、本来こういう場面で動くべき官僚機構がちゃんと機能しなかった。
SPEEDIもそうですね。
それ以外にもいろいろと問題がありますが、

これを誰か個人を攻めろという意味ではなく、
組織全体の持つ「なぜ、安全が求められる場面でその機能が果たせなかったのか?」という事に
メスを入れなければならない。
にもかかわらず、今なにが起こっているか?というと、

みなさん、1年半たって、原子力行政の改革って、何が行われたんでしょうか?
それ以前に、そもそも「組織のここに問題があった」という事がですね、
どれほど行われたのか?という事をやはり論ずるべきだと思うんです。

たとえばですね、国会事故調査委員会が、
「規制当局は電気事業者の虜になっていた」ということをかなり率直に指摘された訳です。
これは、私も原子力ムラに長くいた人間として、あの・・その通りだと思います。
あの・・これは事実ですね。
そして国民の多くも「もう、それはそうだろう」と思っているわけです。

では、その虜となった原子力規制組織が、今、どう変わったか?という事を見つめてみたいんですけれど、

おそらく行われたことは原子力規制委員会がメンバーが新たに選任され、
組織としての看板が変わっただけのことだろうと思いますね。

その下にある原子力規制庁については、
スタッフの8割は、原子力安全保安院です。
それがそのままスライドしてきているわけです。
つまり原子力保安院が虜になっていたという文化的な問題があったとすればですね、
それが、そのスライドしてきた組織は何を持って、この虜となっていたその構造が変わったのか?
というところに対するメスが入っていないんですね。

ただその時に行政の側の説明はたった一言で、
「ノーリターンルールを導入した」と言っています。
つまり、「元の経産省保安院には戻れない。
そのルールでみんな骨をうずめる形で新しい規制庁の方へ行っていますので、
「みんなそこで心を入れ替えて頑張るでしょう」という事を言っているわけです。

これも100%信じることがなかなか難しい面があるんですが、
この論理ですら、最後に法案が通る時に、経った一行入ってきてしまったわけです。
「5年間の猶予条項」ですね。
つまり、これから5年間は元に戻れる。
元の組織に戻れるという条項が入ってきてしまっているわけです。

私はこれは、最後の最後まで反対したんですが、入ってきてしまいました。
これがなにを意味しているか?

みなさん一つの組織を魂込めて、みんな心を入れ替えて作り上げなければいけない。
その文化をゼロからつくらなきゃいけない、その最初の5年間が、
これは我々がその立場で同じ思いになると思うんです。
誰といえども本省で出世することをみんな求めて、
王道を歩むことを求めて省庁に入ってきたわけですから、
そこから外れてノーリターンと言われることは辛い。
戻れるとなれば常に本省の方を意識しながら仕事をするのは人の心のこだわりではないでしょうか。

そう考えるならば、こういう行政の改革のように見えること、
私は「本当の改革なんだろうか?」という事を言わざるを得ないんです。

そして、原子力行政、原子力産業、
ま、産業の何が変わったのか?というのは、
今日は時間がありませんので一応考えていただきたいと思います。

東京電力は半分国有化されたような状態になっただけ、それ以外は何も変わっていない訳です。
従って、今  について申し上げました。


2番目の誤解
後は本当に手短に申し上げたいと思いますが、
原子力規制の改革を行い、絶対に事故を起こさない安全な原発を開発すれば、
原発の利用を進めていくことができるという、
この言葉がよく語られます。

先程の問いをもう一度、
原発の安全性とは一体何なんでしょうか?」

これは、原発の安全性とは原子炉の安全性の事だけではない訳です。
原発の安全性とは今日本で取っている政策である、核燃料全体の安全性の事ですね。

そして、核燃料サイクル全体の安全性というのは、
再処理工場と高速増殖炉の安全性の事だけでもないんですね。

これもよく反対の方もちょっとここでストップしてしまう方もいらっしゃるんですけれど、
増殖炉が安全であることは大前提ですが、
仮に再処理工場も原発高速増殖炉も絶対に事故を起こさないものができたとしても、
全く問題は解決していません。

なぜなら、核燃料サイクルを実践するための最大の課題というのは、
高レベル廃棄物と使用済み燃料の最終処分だからです。

そして、これはもう昔からトイレ無きマンションという批判が投げかけられてきたわけです。

で、実は私自身の経歴は、
1971年に原子力工学を選び、そして原子力の専門を選ぶ時に、テーマとして選んだのは、
周りの優秀な友人たちはみな
高速増殖炉とか再処理工場、再処理施設、さらには核融合を選んでたんですが、
わたしは少し違った視点から、高レベル廃棄物の最終処分の問題を選びました。

その理由は、あの〜、今となっては懐かしい自分の姿ですが、
原子力の未来に夢を抱いていた一人の若い研究者として、
原子力を実現するために一番大きなネックになるのは、結局、このゴミが捨てられない。
廃棄物の処分ができないんだという事を、考えてこの問題に取り組んで、
ドクター論文の高レベル廃棄物の最終処分というものを研究したわけです。
そして、のちに民間企業に出ても、政府の外郭団体でこの研究を、現場での臨床実験もやりました。

いわゆる堀野辺とかそういう名前が上がるような場所ですね。
そして、アメリカの国立研究所に行って、世界でも最も有名な高レベル廃棄物の処分研究、
処分プロジェクト、ユッカマウンテンプロジェクトにもメンバーとして参加しました。

日本でも低レベル廃棄物は六ヶ所村でも処分施設はその設計、安全審査にも携わりました。

言わば放射性廃棄物の専門家としての20年間を歩んだわけですが、
あのー、この問題はいまだに解決していません。


というのはですね、3番目の誤解ですが、
こういう議論になると推進される側の方は、これはかつての私もそうですが、
「高レベル廃棄物は地層処分ができるだろう」と。
国の計画も今は再処理工場で、使用済み燃料を全部ガラス固化体へと、ま、廃棄物をしっかりと固めて、
それを、30年から50年貯蔵したうえで、これを地下深くに、
今は300メートルより深いという事になりました。
私のころは1000メートルよりも深いという数字だったんですが、
いつのまにか300メートルになっていますが、

「深い、安定な、地下水の移動の少ない岩盤中に埋めればいいんだ」という事を言う訳です。
今の政策も公式にはこうなっています。

ところがですね、私がずーーっと、研究者として格闘し続けたテーマは、
10万年の安全をどのようにして証明するか?という事です。

この10万年の安全というのは、これもみなさんよく聞かれると思いますが、
使用済み燃料というのは、何を持って10万年と言われるか?と言えば、

もともとはウラン鉱床を地下深くから掘り出してきて、それを燃やしてすごい放射能になる。
それを最後地面の深くに埋めるとすれば、
元のウラン鉱床と同じくらいの毒性にまで減衰すれば、これで安全と言えるのではないか?
比較的理解しやすい考え方ですが、
この考えに基づくと10万年かかります。
高(低?)レベル廃棄物の場合には数万年です。

いずれにしても、
現在の科学ではこれは証明できないというのが私の20年間の研究で悩み続けたことです。

で、ところがですね、もうひとつのセプテンバー・イレブンと私が呼んでいるんですが、
今年の9月11日に皆さんもご存じのように日本学術会議が提言書を出したわけです。

これは、正式な報告書を原子力委員会に出したわけです。
で、日本でも最高の権威が三つの事をおっしゃったわけです。
「日本において地層処分を行う事は適切ではない」とハッキリおっしゃったわけです。
その理由は先ほど申し上げた現在の科学では10万年の安全は証明できないという、
これは、あの、原子力を推進するためにこのテーマに取り組んできた一人の人間が正直に申し上げれば、
「おっしゃるとおりです」
これはもう、正鵠を得た指摘としか言わざるを得ないのです。

この事についてはNHKがしばらく前にクローズアップ現代で、
非常に分かりやすくこの事を解説されていたと思いますが、
たとえば今まで地層処分ができるという論理は、
地図を広げて活断層がない地域を全部マッピングして、
活断層の無い地域がこれ位あるから、そこに埋めれば大丈夫だという論をしていたんですが、
実は活断層が無いところでも地震が起こったという事を
NHKは、あの番組で示しました。

そして、地下水の速度が非常に遅いということを論拠としていた地層処分ですが、
これも福島ですか、地下水がある、地震が起こった後にもう、
毎分4リットル出て、1年半たっても地下水が止まらないという状況まで紹介していましたが、
分かりやすく言えば、まだ現代の科学で分からないことが沢山ある。
という事を分かりやすく説明されたと思うんですね。

その事を持って学術会議第一の提言ですが、

第二の提言は、したがって地層処分はするべきではないし出来ない。従って数10年から、数100年です。

こちらの数字の方が重いと思います。

そして、現実にはこちらの数字の方が、我々が直面する問題になると思いますが、
暫定保管をするべきだと、

つまり長期貯蔵をするべきだという事を指摘したわけです。
これも論理、必然的にそのような話だろうと思います。

で、実は世界の主要国の政策をみなさんご覧になると、
アメリカもドイツもフランスもイギリスもカナダも
どこも、一応地層処分をやるという建前で政策はつくられていますが、
よく読まれるとその手前のところに、
長期貯蔵ができるような政策論になっています。

フランスの場合には可逆的処分なんていう言葉を使っていますが
分かりやすく言えばいつでも取り出せる。
貯蔵ですよね。

ですからどの国も処分ができなくなるという事を想定しつつ、公式には認めず、
ただし、いざ、もう処分ができずに長期貯蔵が永遠と続く場合にも
数百年位はできるような体制に入っているのが現実です。

ただし日本は学術会議がそれを堂々と明確に指摘されたというところが、
ある意味では一つ世界から注目される部分かと思います。


で、3番目の提言が従って、長期貯蔵をせざるをえなくなるとすれば、
捨て場所の無いゴミがどんどん出るわけですから、総量規制をするべきだ。
これも、もう常識の範疇だと思います。

捨て場所が見つからないのであれば、とにかくゴミをどんどん出すわけにはいかない。
従って、いま1万7000トン存在するといわれる使用済み燃料を、
仮にですけど、2万トンとか、仮に仮に3万トン、
で、もう打ち止めにするという事をやらざるを得ないわけです。
そうすると当然のことですが、
総量規制を行わざるを得ないという事は、
原発に依存して電力を供給していく」要するに原発を稼働させるという事は、
この一点からの理由で、限界がやってくるという事です。

従って、最初に申し上げた、
原発に依存しない社会、もしくは原発ゼロ社会というものは、
政策的な選択の問題では、もはや無くなっています。

これは不可避の現実と言わざるを得ないです。
で、一言付け加えれば、
廃棄物の方策の問題をまっとうに考えずに、
工場を操業しているのは原子力産業だけではないでしょうか。



後はもうほとんど一言だけで申し上げますが、
今申し上げたのは、もう一度言葉で申し上げれば、
「選択するか否か?」だというのは選択の問題ではない。
これは、「依存できない社会がやってくる」ということですね。


で、もう一つだけ付け加えておくと、5番目の誤解というのは、
ここまで議論しても尚、

「いや、でも例の消滅処理とかというのがあるそうじゃないですか」
「高レベル廃棄物は原子炉の中で燃やすことができるそうじゃないですか」
「なくなるまで燃やしてしまえばいい」
「もしくは宇宙処分というのがあるそうじゃないですか」

これも私も20年研究し続けました。
「宇宙処分」はまず、あの瞬間に宇宙処分は無理だというのが世界の常識になりました。
チャレンジャーの爆発ですね。

それから「消滅処理」というのは原子炉の中で燃やし続けるという事で、
わりと素人の方は簡単に「それができるそうじゃないですか」とおっしゃいますが、
大きく二つの問題があります。

ひとつは、エネルギーバランスがそれでとれるんですか?
それから、コストはどれくらいかかるんですか?

という問題。
これは相当重い問題だと思いますが、それ以上に重い問題は、

消滅処理は、・・・これもちょっと長い時間がとれませんので一言で申し上げれば、

原理的に重元素、
重くて半減期の長いものを中性子をぶつけて、
これを軽くて半減期の短い元素に変えるという概念なんですが、

じつは、核物理学で研究をすると、

この中性子を当てて壊れた後にですね、
実は、軽くて長半減期放射性物質が出てきてしまいます。
これはテクネチウムと呼ばれる元素ですが、これが実は一番悩ましいです。

つまりこれ以上壊しようがない。
だけれども、極めて長半減期のものになるという。

ですからあんまりこういう事をイージー原発を進める事の根拠として語ることには私は慎重です。


そして、「未来の世代がどうせ解決してくれるよ」というのも、言葉の使い方の問題だと思いますが、
現実に学術会議が真摯な姿勢で提言されているのは、
「未来の世代の科学の発達や技術の発達に期待せざるを得ない」という事を
謙虚におっしゃっているわけです。
しかしこれをあまりイージーに逆手にとって、
「未来の世代が解決してくれるよ」という事で原発を進めるというのは、
わたしは姿勢として「似て非なる姿勢」だろうと。

これはもう明らかに世代間倫理の問題になります。

地層処分をやって、埋めて、もし地表に汚染が戻って来るとしても、100年以上先だと思います。
ここにいらっしゃる方は私も含めて、我々の世代の方が被害を被ることはないだろうと思いますが、
だからこそこの問題は、

非常に成熟した国民の判断が求められる。

原発そのものは現在の国民にも被害が及びますけれども、
廃棄物の処分は、我々が
ほんの少し無責任になればやれてしまう政策的な

課題だという事が、

私はむしろ非常に怖いと思います。

国民一人一人の意識の成熟が、実は今求められている。

だからこそ、国民の意識の成熟という事は、これは私自身も問われていると思いますが、メディアの方々もまた、国民がまっとうに考えるべきテーマを、深く問うていただきたい。
これは数百年を超えて、ま、10万年とまでは言わないですけれども、
「未来の世代に非常に難しい問題を先送りする政策なんだ」という事。
その事を申し上げてまずは私からの問題提起とさせていただきます。
元記事

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2504.html