風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子16

クリスチナ・マヌエラと云ふ汝が教へ名うるはしみ思へかかるゆふべは『橙黄』
葛原妙子のこの短歌が載っている『橙黄』には、次のような歌もある。

(こ)を領せむすでにあやふし受洗のこと息つめて一夜あらそひしのち
をとめの日わが持たざりし堅忍を祕めつつかすかにまなこ燃えむか
早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ

葛原妙子のご長女である猪熊葉子さんの『児童文学最終講義』を読むと、これらの短歌がご長女について詠んだものだと推定される。

又、この『橙黄』の中には、こんな歌もある。

(おか)し合ひかたみにかなしき日のあれど愛(う)しよこころ通ふをとめよ
この短歌も、きっとご長女猪熊葉子さんのことを詠われたものだろうと私は思う。


又、『橙黄』に続く『縄文』には、初めに掲出した短歌から微妙に変化した次のような歌が載っている。

クリスチナ・マヌエラといふ汝が洗禮名(をしへな)いみじくあれば死ぬかとぞおもふ『縄文』
この歌の後には、「汝」つまり猪熊葉子さんであろうと思われる處女(をとめ)が手術を受けた前後のことを詠ったものが連なっている。キリスト教の受洗をめぐって確執のあった娘が手術を受けなくてはならなくなって、得体の知れない洗礼名などを持ったばかりに死んでしまうんじゃないかと不安に駆られている母親の心情が吐露されている。

そして、その一連から少し離れて次のような歌が置かれている。

血液ののぼりそめたるをとめ子は死なざりし故に指に編みをり『縄文』
「死なざりし故に」という表現がどこか冷たく響くように思えるが、「死ぬかとぞおもふ」と大げさに心騒がせた自分への嘲笑が混じっているためだと思う。この言葉の前後の「血液ののぼりそめたる」と「指に編みをり」という「をとめ子」を描写した言葉の中に、なんとも温かな「ほっとした」という想い(作者は抑制したつもりでいたかも知れないが)が、こもっているように思われる。