風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

春の雪ふる

20代の頃、山頭火の俳句が好きだった。山頭火のような句は自分では作れそうにないから、ひたすら読んで「いいなぁ、好きだなぁ」と思うばかりで自分では全く詠まなかった。
30才を過ぎて、身近に俳句の師匠を得て、面白半分に子育て俳句を作っては見てもらっていた。ある時、「耳に手を当てて虫の音聞く子かな」と作って見てもらうと、「季語というのは、「虫」と聞いただけで秋の虫の音が聞こえてくるようなものだから、「虫の音聞く」というのは余分な言葉をたくさん連ねていることになる」と言われた。俳句は省略の文学だということだ。だけど・・、

この道しかない春の雪ふる  山頭火

久しぶりに山頭火の句集を取りだして見ていると、こんな句があった。省略の文学の観点から言えば、「春の雪ふる」の「ふる」は余分なのではないだろうか。けれど、このひらがなの「ふる」が、この句を柔らかく味わい深くしているように私には思われる。
省略してキリリと締まった句も素敵だが・・。
おそらく、この先もずっと揺れ動いている私である。



おちつばきおちつばき石垣の下
           垣の下の椿先生に捧ぐ

こんな句を師匠が見たらなんて言うだろう。「写生が全く出来てなくて、『おちつばき』を二度も繰り返して無駄!」って言われるだろうか?