風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「あなたが汚した大地に接吻なさい」 − ドストエフスキー『罪と罰』13

「お立ちなさい!(彼女は彼の肩をつかんだ。彼は、ほとんど呆気にとられて彼女を見つめながら、体を起こした)いますぐ、すぐに行って、十字路に立つんです、おじぎをして、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから四方を向いて、全世界におじぎをなさい。そしてみなに聞こえるように、「私は人を殺しました!」と言うんです。そうしたら神さまが、あなたにまた生命を授けてくださる。行くわね? 行くわね?」(岩波文庫罪と罰 下』p135)

しかし、このすぐ後にラスコーリニコフは、「懲役のことを言っているのかい、ソーニャ? 自首しろとでも言うのかい?」(p136)と言っている。またp138でも、「おや、なんだってそんな声を出すんだい! ぼくに懲役に行けと自分で言っておいて、いまさらそんなに驚くなんて」と言っている。

このやり取りを見ると、ソーニャの言っていることとラスコーリニコフの受け止めとが明らかに食い違っているということが、分かると思う。

 

この「あなたが汚した大地に接吻なさい」という言葉について、訳注には以下のように記されている。

「大地への接吻」というモチーフは、ドストエフスキーにはしばしば現われる。アリョーシャ・カラマーゾフの大地への接吻は有名だし、『悪霊』のマリヤ・レビャートキナは、ふしぎな巡礼の老婆から、「聖母様は大いなる母、うるおえる大地・・・・・自分の涙で足もとの土を半アルシンもの深さにうるおせば、どんなことにも喜びを感ずることができるようになる」と教えられる。ソーニャの勧めには、この教えとの関連が読みとれる。ロシアの民俗学者アファナーシエフは、古くロシアでは、病気からの回復を「神の赦しを得る」という言葉で言い表すことがあったと述べ、病人が十字路へ出て行って、そこにうつ伏せに身を投げ、母なるうるおえる大地に病を癒やしてくれと懇願する風習があったと伝えている。いずれにせよソーニャの勧めは、きわめてロシア的なモチーフであることが知られる。(岩波文庫罪と罰 下』「訳注」より)

しかし私は、ロシア的な風習は踏まえていたとは思うが、それだけではないと考える。流刑地シベリアで聖書を耽読していたドストエフスキーである。この言葉の背後に聖書が置かれていないはずがないのである。

 

聖書の中でも、最初に血を流して大地を汚したカインとアベルの物語は有名である。

主は言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今やあなたは呪われている。あなたの手から弟の血を受け取るため、その口を開けた土よりもなお呪われている。(創世記4:10~11 聖書協会共同訳)

この「なんということをしたのか」という言葉は口語訳では「あなたは何をしたのです」と訳されているのだが、新共同訳から「何ということをしたのか」に変わっている。

 

この後に「今やあなたは呪われている。…その口を開けた土よりもなお呪われている」と続いているから、ソーニャの発した「あなたはなんてことを、いったいなんてことをご自分にたいしてなさったんです!」(p116)というラスコーリニコフへの叫びは、ここから来ている言葉だと言えるだろう。

 

では、血を流していない『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの場合はどうなるだろうか?

カインとアベルの物語に先立って語られるアダムとエバの堕罪では血は流されていない。しかし、罪に堕ちた女に向かって、神は「何ということをしたのか。」(創世記3:13)と語られ、アダムに対しては「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。」(創世記3:17)と語っている。

 

 

さて、私はいつも本を読むときは後ろから読むことの方が多いのだが、『カラマーゾフの兄弟』の「解説」を読んだ記憶はないのだった。最近、その「解説」を読んだ。そしてその「解説」はひどく私を納得させてくれたのだった。

 アリョーシャは『大審問官』をきき終わったとたん、思わず「そんなのはローマですよ、カトリックの中のいちばんわるい部分です!」と叫んだ。たしかに、『作家の日記』でドストエフスキーがしばしばローマ・カトリックを批判していることを思い起こすなら、今世紀イタリアの司祭である哲学者グァルディーニの「『大審問官』はたしかにローマに対するたたかいである」という言葉は正しいと言えよう。しかし、ドストエフスキーがたえず批判しつづけたのは、宗教としてのカトリック教もさることながら、権力による人類の自由なき統一を主張するローマ・カトリック教皇至上主義、教皇無誤謬主義のような、カトリック的思想であったのであり、ドストエフスキーはその中に社会主義をも含めて考えていた。彼は社会主義の中に、石をパンに変えようとする試みを感じとったのである。『作家の日記』でドストエフスキーは言う。

「・・・・・やがて人々は、土の中から信じられぬくらいの収穫をひきだし、化学によって有機体を造りだし、わがロシアの社会主義者たちが夢みているように、牛肉が一人一キロずつ行きわたるようになるかもしれぬ。一口に言って、さあ飲め、食え、楽しめというわけだ。『さあ』すべての博愛主義者たちは絶叫するにちがいない。『今こそ人間は生活を保障された。今こそはじめて人間は本領を発揮することだろう! もはや物質的窮乏はないし、すべての悪徳の原因だった、人間を蝕む《環境》ももはやない、今こそ人間は美しい正しいものになるだろう!・・・・・』・・・・・だが、はたしてこうした歓喜が、人間の一世代もつかどうか疑わしい! 人々は突然、自分たちにはもはや生命はない、精神の自由もない、意志も個性もない。だれかが何もかも一遍に盗んでしまったのだ、ということに気づくことだろう・・・・・」

 ドストエフスキーは、石をパンに変えるだけの目的で人間を結合させようとすることに、自由の喪失を、終局の始まりを感じとった。

 

(中略)

 

「ロシアの社会主義の目的と帰結は、この大地が収容しうるかぎり、この地上に実現された全民衆的な、宇宙的な教会である・・・・・ロシア民衆の社会主義は、共産主義機械的な形式に存するのではない。ロシアの民衆は結局は、キリストのための全世界的結合によってのみ救われることを信じている。これがわが国ロシアの社会主義なのだ!」(『作家の日記』)

 

        (新潮文庫カラマーゾフの兄弟 下』原卓也=著「解説」より)