風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

徐京植=著『プリーモ・レーヴィへの旅』と奈良本英佑=著『君はパレスチナを知っているか』


● 「新版 プリーモ・レーヴィへの旅」 徐京植
危機の渦中にいる人々は「作られた慰めの真実」にすがりつこうとする。危機の現場から距離の離れた人々は想像力を及ぼすことができない。この現象を私は「同心円のパラドクス」と呼んだことがある。しかし、このままでは、真相を隠蔽し、被害を軽く見せ、責任を回避し、利潤や軍事力を保持し続けようとする人々、「致命的な雷のよこしまな管理人たち」を利するばかりだ。被害の中心から遠い人々ほど被害の真実にみずからの想像力を及ぼそうと努めなければならず、被害の中心に近い人々ほど勇気をもって過酷な真実を直視しなければならない。証言者(表現者)は「表象の限界」を超える証言(表象)に挑まなければならず、読者はみずからの「想像力の限界」を超える想像力を発揮しようと努めなければならない。惨劇の再来を防ぐため、この時代が私たちにそのことを要求している。そのような思考の「尺度」を示した存在が、プリーモ・レーヴィなのである。(『新版 プリーモ・レーヴィへの旅』より抜粋引用)

プリーモ・レーヴィへの旅』は晃洋書房から新版が出ているようです。
プリーモ・レーヴィへの旅』徐京植(ソ キョンシク)=著(朝日新聞出版社)
この本は随分前に購入したものであるが、最初から最後まで読み通すことができないでいる。読み通すのが難しいのだ。何故なら、私が日本人であり、著者が韓国人だからだ。そしてプリーモ・レーヴィユダヤ人であり、私はキリスト教徒だからだ。

以下に抜粋引用する。

 ところで、ミュラーのような日本人になら、私もしばしば出くわすことがある。
 日本には以前から、あれは「時代」が悪かった、「戦争」というのはそういうものなのだ、一部の「狂信的軍人」が暴走したのであり国民も天皇も「事実を知らされていなかった」のだ、と言い張る人々がいる。…。
 私の「ミュラー」もまた、私に、「なぜ、そんなに不安そうにしているのですか?」と、一見誠実そうな無頓着さで尋ねるのだ。あるいは、「なぜ、そんなに怒っているのですか?」とか、「なぜ、悲しんでいるのですか?」とか・・・・・。不安や怒りや悲しみの原因に自分自身もかかわっているかもしれないなどと、彼らは想像もしてみないのである。
 彼らはたいてい、自分のことをヒューマニストで平和愛好家だと堅く信じている。話していてくつろいでくると、韓国に旅行したことがあるとか、親しい友人に「在日の人」がいるとか言い始める。…。だが、しばらくすると、いったいいつまで謝ればいいんですかね、と日頃の疑問をちらりと口に出してみる。そして、こちらが何か言おうとする前に、いまや「国際化」の時代なんだからお互いに「未来志向」で「共生」していかなければいけないと、空疎なキーワードを並べたてるのである。
 …。
 ついでに彼らは、あなたももっと「前向き」に生きるべきだと、真顔で忠告する。いったい、どちらが「前」なのか?しかし、彼らの確信するところでは、いつでも新しいのは彼らであり、古いのはこちらである。それに、彼らにとって「新しい」ということは経済的な「豊かさ」と同義であり、それこそが「正義」にもまさる尺度なのだ。p168〜
(中略)

 何年も前から私は、自分がドイツ人であることを恥じるという何人ものドイツ人に出会ってきた。私はいつも彼らに向かって、私は人間であることを恥じると答えようという思いに駆られた。この原則的な恥ずかしさは、今日では様々な国籍の多くの人間が共有するものであり、感情の上で国際連帯に関して残された唯一のものである。
  (中略)
人類の逃れられない責任に対して心底不安を抱いている人たち、そのような人たちだけが、人間が惹き起こすかもしれない、恐るべき悪に対して勇敢に、妥協せず、全面的に闘いを挑まねばならぬとき、頼りになるのである。(「組織化された罪」『パーリアとしてのユダヤ人』)

 ハンナ・アーレントの文章である。一九四四年十一月、亡命先のアメリカ合衆国で書かれている。プリーモ・レーヴィがまだブナに囚われていた頃のことだ。ナチス・ドイツは劣勢とはいえまだ敗北しておらず、他方アウシュヴィッツの恐ろしい真相はようやく世間に広く知られつつあった。彼女自身が亡命ユダヤ人の苦悩と悲哀を経験していたことを考えると、この時点で彼女が「ドイツ人」総体への激しい嫌悪や敵意を表明していたとしても不思議ではない。しかし、彼女はここではっきりと、民族としての「ドイツ人」総体に罪があるとする考えに反対しているのである。冷厳なまでの普遍的精神というべきであろう。
 しかし、急いでつけ加えておかなければならないのは、ここでのアーレントの主張が、ドイツという政治共同体の成員、つまり「ドイツ国民」の政治的責任を免責するものと誤読されてはならないという点である。アーレントは後年に書いた「集団の責任」という論文で、「罪」と「責任」の概念を明確に区別している。「わたしたち全員に罪がある」という叫び声は現実には、実際に罪のあるものを無罪放免するはたらきしかしなかった、と彼女はいう。p171〜
(中略)
 実は、これと同種の質問は、私自身にも耳慣れたものだ。・・・・・「日本人」の罪というのがあるのでしょうか?かつて中国人や朝鮮人を虐待した人たちと自分とは同じ「日本人」なのでしょうか?「日本人」の中にも「いい人」がいたことを無視しないで下さい。(ただし、戦前戦中に天皇制と侵略戦争に対して闘った日本人は、ナチに抵抗したドイツ人に比べても極端に少ない。)p176〜
(中略)
 …。私は一時、とにもかくにも生き証人が現れた以上、もはや事実を否定し続けようとする者はいなくなるだろうと思ったこともあったが、それは甘い考えだった。
 生き証人たちが現れたこと、および日本国と軍の関与を示す証拠資料が発見されたことによって、日本政府は従来の公式見解を改め、あいまいにではあれ「慰安婦」制度の「強制生」を認めたが、それでもなお国家の法的責任を認めず、公式謝罪にも補償にも応じようとしていない。それだけではない。日本人の誇りを守ると称する人々が教科書から「慰安婦」に関する記述を削除せよと声高に要求し始めた。「金ほしさ」に嘘をついているのだ、そうでなければ証拠を出してみろ–––––生き証人たちはそんな侮辱にさらされることになった。…。
(中略)
 プリーモ・レーヴィのようなアウシュヴィッツの生き残りも、金学順たち元「慰安婦」も、ともにこの暴力の世紀を生き延びた貴重な証人なのである。だが、証人たちは、自分自身の理解をも超え、表現可能性を超えた経験を証言しなければならない。理解不能の経験を理解し、表現不能の状況を表現し、伝達不能の想念を伝達するという本来的に不可能な務めが、不条理にも、証人たちに課されるのだ。
 そして、いつしか証人たちは、不当な疑いや無関心の眼差しに囲まれて孤立している自分を見いだすのである。
 「なぜ?」「ほんとう?」「とても信じられない・・・・・」
 無神経な問いの数々。そうとも、それは信じられないのだ。信じられない出来事が引き起こされたのだ。彼ら、彼女らはその信じられない出来事の犠牲者なのだ。あなたがたを信じさせる義務が、犠牲者に課されねばならないというのだろうか。
(中略)
 ジャン・アメリーもプリーモ・レーヴィも自殺した。金学順は一九九七年十二月十六日に亡くなった。暴力の世紀の生き証人たちは全世界で次々に死につつある。p202〜(徐京植=著『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社)より引用)

きちんと読んでいないこの本を紹介しようとしているのはどういうことかと思われるかも知れない。それは、この度の自称(と付ける方が良いようだ)イスラム国と日本の間で起こった出来事と宗教について考えたいと思ったからなのだ。パレスチナについて考えるには、先ずイスラエル、つまりユダヤ人について考えなくてはならないと思ったのである。
プリーモ・レーヴィが自殺したのは何故なのかという問いにはっきりとした答があるわけではない。が、この本の続きのところを引用して思索をすすめていきたいと思う。

 レーヴィ自身は戦後パレスチナに移民してイスラエル国家建設に参加する選択をしなかった。彼はアウシュヴィッツから生還してイタリアに自らの祖国、家、家族を再発見したからだ。その一方で、アニシモフによると、自分の故国で憎まれ、すべてを失った東欧のユダヤ人が「約束の地」に向かうことができるのは当然のことと彼は考えていた。レーヴィは、イスラエル国家は家族を殺され故郷の共同体を破壊されたユダヤ人、それもアウシュビッツの地獄をともに生き抜いた彼の仲間にとってのかけがえのない「避難所」だと考えていた。
 しかし、レーヴィを含むかなり多くのユダヤ人知識人たちのこのような考えにも、深い亀裂がはいる時がきた。いや、もともとあった亀裂が否応なくさらけだされる時、というべきかもしれない。『今でなければ いつ』が刊行されたのと同じ一九八二年の六月、イスラエル軍PLOパレスチナ解放機構)の軍事拠点を叩くという名目でレバノンに進攻したのである。この進攻作戦には国際社会とイスラエル国内の左派から非難の声が上がった。プリーモ・レーヴィもまた、ナタリア・ギンズブルグらとともに、ユダヤ人と非ユダヤ人あわせて百五十人による「イスラエル軍レバノン撤退を求めるアピール」に署名した。この「アピール」は「イスラエルの民主主義の運命は、パレスチナ民族との平和および相互承認というパースペクティヴに全面的に結びついている」として、「この地域の全民族の主権と民族的安全の権利が認められるような紛争の解決」を主張している。
 レーヴィは、イスラエル国家が自分たちの願いのうちにあったユダヤ民族の避難所というイメージとは逆に、「軍事的方向へ、未熟なやり方のファシズム的方向」へ変化していること、「ユダヤ文化のインターナショナリズム的側面」にかわって「攻撃的意味でのナショナリズム」が強まっていることに危機を感じたのだ。彼はいう、「私たちはまず第一に民主主義者、第二にユダヤ人、イタリア人、その他であるべきです」。
 「アピール」が同年六月十六日の『ラ・レプブリカ』紙に発表されると、レーヴィのもとに、イタリアのユダヤ人たちから、イスラエルが困難に陥っている時に批判的立場をとるのはおかしいという非難が殺到した。イスラエルにいる友人の何人かが「この間に流されたユダヤ人の血に盲目だ」と非難する「刺すような手紙」を送ってきた。
 その一方で、反イスラエルの側からの非難もまたレーヴィをみまった。『今でなければ いつ』の紹介のために開かれたある集会で、二人のパレスチナ人がレーヴィがイスラエルに好意的だと抗議したため、本の紹介ができなくなるという事態も起こった。
 かつてのユダヤ人の悲劇と現在のパレスチナ人の悲劇を比べて論じる反イスラエル側の論法に対しては、レーヴィは「誇張されすぎだ」と反論した。「ヒトラーが《最終的解決》と呼んだものと、イスラエル人たちが今日引き起こしている多かれ少なかれ暴力的で恐ろしい出来事とを同一視することを私は拒否する」。
 こうして心を千々に引き裂かれたレーヴィは、「私は、私の名前がこの戦争に結び付けられるのをもう望まない」と述べて、公式発言を拒むようになった。
 レバノンでは戦闘が長期化したが結局PLOは屈服を強いられ、八月十六日にベイルート撤退を声明、九月三日にはアラファト議長チュニスに移った。そして、その後、九月十五日にイスラエル軍が西ベイルートを占領した翌日、パレスチナ難民キャンプで親イスラエル民兵による無差別大虐殺が繰り広げられたのである。PLOの発表では犠牲者数は三千二百人以上にのぼる。ワルシャワ・ゲットーや東部戦線の大量射殺を容易に連想させるこの出来事を、レーヴィはどう思っただろうか。そのコメントはない。
 プリーモ・レーヴィは「われわれの誰もが、隣人の場所を奪い取ってその代わりに生きている」と、つねに根源的な問いを自分自身に投げかけてきた人物である。そうであるだけに、イスラエル国家がその隣人にとり続けている態度は、彼の良心に刺さったトゲであっただろう。一九八二年のレバノン進攻と大虐殺は、トゲの疼きを危機的な水位にまで高めたかもしれない。p211〜(徐京植=著『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社)より引用)

きちんと読めていないこの本を取り出して、ちらちら読む中で今回改めて考えさせられたのは、引用されているハンナ・アーレントの言葉だった。もう一度抜粋する。
「わたしたち全員に罪がある」という叫び声は現実には、実際に罪のあるものを無罪放免するはたらきしかしなかった、と彼女はいう。
私は、「信仰」ということを考える時、この「罪」を捉えることなくしては考えられないと思っていた。つまり、「わたしたち全員に罪がある」と。けれど、この言葉によって問題が曖昧にされてしまうということが新たに起こってくるというのである。


上記、眞葛原雪さんのツイートを拝見してコメントを返しているうちに、再度、「罪」について考えさせられたのだった。
「善悪を知る木の実」をとって食べた(創世記)––– というのはどういうことだったのだろうか、と。
イスラムユダヤ人、そしてキリスト教国が関係する戦いには宗教の問題が根底に横たわっている、と言う。自分たちの信じる正義のために戦うという者達を止めるのは難しく、宗教が関わっている問題は厄介で解決不可能であるという印象が広く持たれている。確かに、この旧約聖書に記された最初の人が罪に堕ちたところを読むと、「善悪を知る木の実」をとったことによって、人類は、自分の善、自分の信じる正義のために戦う者になってしまったように思えるのである。けれど、それこそが「罪に堕ちた」ということに他ならないと聖書は語っているのではないか。
純粋に宗教のためだけの戦いというのはないのではないだろうかと私は思う。宗教的アイデンティティーを傷つけられたために武器をとって攻撃するというのは、武器をとった時点で偶像崇拝に堕してしまっているのだと思える。自分の考える正義、自分の考える善に基づいて他者を攻撃するという点において、「善悪を知る木の実」をとって罪に堕ちたアダムと同じ罪に堕ちてしまっているといえるように思う。これは武器をとらずとも、自分の考える善によって他者を裁く場合も同じであると思う。
本当に他者を重んじる人間は、相手の宗教的アイデンティティーを傷つけようとはしないと思うが・・。

以下、奈良本英佑=著『君はパレスチナを知っているか』より枠内に引用する。


 「ネトゥレイ・カルタ」ともいうユダヤ教徒のグループは、イスラエルに住んでいてもこの国家を認めず税金の支払いも兵役も拒否している。ユダヤ教徒を救うのは神の仕事であり、人間が勝手に「ユダヤ人の国」をつくるのは神への冒とくだと考えるからだ。いまでは少数派のものとなった考え方だが、イスラエル建国以前は信心深いユダヤ教徒の圧倒的多数がこのようにいってシオニズムを非難した。
 だが、早くからシオニズム運動に協力した少数の宗教的な人々がいた。アブラハム・I・クック(一八六五〜一九三五)はそのような宗教派の理論面の指導者だ。ラトビア生まれのクックは、バルフォア宣言の実現に協力し、一九二一年から一五年間、パレスチナの初代チーフ・ラビ(ユダヤ教の最高指導者)をつとめた。
 かれは、「ユダヤ民族」という考え方を認め、宗教に無関心な者や無神論者が中心になっている民族主義運動=シオニズムに協力すべきだと説いた。現にユダヤ人たちがパレスチナへ帰りつつあることは神によるユダヤ人の救済のはじまりを意味する。この事業を進めているシオニストたちは、それとは気づかずに、神の意志によって働いているのだ、とかれは主張した。クックの説に勇気づけられてシオニズム運動に参加した少数の宗教派の中から生まれた「ミズラヒ」は、建国後、「国家宗教党」となる。やがて宗教派の多くはシオニストの主張を認め、ネトゥレイ・カルタのような人々は少数派に転落するのだ。(奈良本英佑=著『君はパレスチナを知っているか』(ほるぷ出版)より引用)

ここに書かれている事柄の根底にある問題は「居住地を得る」ということであると思われる。先ず最初に宗教の問題があるのではない。プリーモ・レーヴィへの旅』から引用したレーヴィの言葉に「われわれの誰もが、隣人の場所を奪い取ってその代わりに生きている」というものがあった。今、世界中で行われている戦いのほとんどが生きる場と富を求めての戦いなのではないかと私は思う。
「生きる場」を求めての戦いを軽視するつもりはない。3・11以降、私達の国も原発難民を抱えるようになってしまったのだが、国ごと追われるという体験をしたことのない身が「生きる場」を求めて戦う人達を非難することはできないとずっと考えていたのだった。
そして又、ユダヤ人達が故国をめざして帰ろうとする背景に、キリスト教徒の問題が横たわっているということも私の心に長らく引っかかっていたのだった。ユダヤ人はキリストを殺した民族だという思いがキリスト教徒の中に根強く持たれていた、と聞くのである。グリム兄弟が収集した童話の初期のものの中にもユダヤ人を敵視する話がおさめられている。シオニズムの始まりが、こうしたヨーロッパでのキリスト教徒によるユダヤ人迫害に端を発しているということが私の心に引っかかって、考えることを先延ばしにしていたのだ。
けれど、これも宗教が根底にある問題ではないと今になって私は思う。旧約聖書出エジプト記には次のように記されている。
イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト記1:7~10)
第一次世界大戦後のドイツも経済破綻の中で国民達は困窮していたという。戦争というのは生きる場が奪い取られようとする中で起こってくるものなのではないかと思えるのである。そしてその背後には、大国の領土拡張の問題(領土の奪い合い)があるだろう。

けれど又、ユダヤ教イスラム教、キリスト教に共通して読まれてきた旧約聖書十戒にはこう命じられている。
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。…。殺してはならない。…。盗んではならない。…。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト記20:1,2,13,15,17)
「隣人の〜」と記されている「隣人」の定義は、旧約の時代のイスラエルにとっては同胞をさすというように聞く。しかし、2節で「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と語られている言葉は大きく、これら十戒の前提を成している。ここから、「ネトゥレイ・カルタ」のようなユダヤ教徒の人々は「人間が勝手に『ユダヤ人の国』をつくるのは神への冒とくだ」という結論を導き出したのではないかと思う。
旧約聖書を新約のイエスの教えから読み取るキリスト教徒にとっては、この「隣人の〜」が誰の物を指しているかは言うまでもないことである。しかしイエスの教えを道徳的規範として受け取るなら、またしてもイエスの教えを自分の信じる最高善として他者を裁くということが起こってくるであろう。
眞葛原雪さんがツイートで書かれているように、私達キリスト教徒が新しい解釈でこの十戒をしっかりと捉え直す必要があるように思われる。

アダムが罪に堕ちた後に神から言い渡される言葉が思い起こされる。
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。…。」(創世記3:17~19)
しかし、今や日本で、働く場も得られなくなりつつある。つまり、戦争というものがこの日本にも差し迫っているといえる。心して、賢明(懸命)に押し止めなくては、と思う。

キリストは、その生の最初から居住する家を与えられず馬小屋でお生まれになったのである。居住地を持たない者の苦悩を、《聖書》は旧約の初めから繰り返し記している。

新約聖書ユダヤ人についてどのように語っているだろう。別の機会に、そのことをもう一度考えてみたいと思う。



● 早くも、イスラム国(ISIL)の虚像崩壊か
今では、「アメリカとイスラエルイスラム国を育成して、中東に不安定をもたらすために裏で操っている」という事実は世界の常識となっているほどです。
…。
アメリカとイスラエル、そして長年、「イスラム教徒を自国に都合がいいように改変」を行っている英国による「イスラム教徒同士を分断させる」戦略の下で動いているのがイスラム国なのです。
(中略)
ネタニヤフを議会の承認を経ることなしに非公式に米国議会に呼び寄せたのは、ブッシュに象徴されるネオコン(Neo-Conservative)の巣窟、共和党です。
共和党は、オバマオバマケアを潰したいので、アメリカにいるキリスト教原理主義者を焚き付けて、「イランを攻撃しないオバマ弱腰論」を大きなうねりにしたいと考えているのです。
…。
ブッシュらに代表される新世界秩序(NWO)推進者は、キリスト教原理主義者や福音派の終末論を自分たちの保守的な運動(Neo-Conservative movement)に結びつけようとしてきました。
(中略)
その反対に、オバマ政権が進める「イランとの融和政策」を支持するアメリカ国民は、イスラム国の残虐なビデオが出回ってからというもの、増え続けていて支持率も共和党を上回っています。
この背景には、「戦争はこりごりだ」というアメリカの強力な世論と、2008年のリーマンショックから続く一連の金融政策によって、中間層が崩壊し、「戦争どころの話じゃないだろ!」という米国民の怒りがシオニストのネタニヤフに向けられているからです。
(中略)
アメリカで大規模な反イスラエル抗議行動が起こっています。
…。
去年から今年にかけて、イスラエルで、今までになかったことが起きました。
それは、イスラエル兵の一部が、パレスチナへの攻撃をボイコットしたことと、イスラエルの女性たちが「戦争は、もうごめんだ」とネタニヤフに「アイ・アム・ノット・ネタニヤフ」を突きつけたことです。
…。
アメリカでも、去年から反イスラエルの大規模デモがワシントンD.C.など各地で起きているのですが、日本のメディアはイスラエルと武器輸出を柱とする準同盟を結んだ安倍政権に不利になると、一切報道してきませんでした。
(中略)
これは、飽くまで私の見方ですが、「ネタニヤフも、オバマも、共和党も、アメリカのマスメディアも、すべてが芝居をやっている」ことに間違いはないと思います。
…。
安倍は、世界の潮流からはじき出されるネタニヤフと準同盟を結んだのです。つまり、安倍も世界から排除されることを意味します。

また、米国議会でも、安倍晋三沖縄県民の声を圧殺するようなやり方は、後々、反米感情の高まりを招いて、両国にとって悪い結果をもたらすことを危惧している米軍将校、国会議員が増えています。
…。
つまり、辺野古移転は、100%米軍の本意とばかり言えないのです。
自民党霞が関の土建官僚の利権がからんでいるので、どうしても県外移設の線を潰してしまいたいという思惑が見えます。(抜粋引用)
ユダヤ教がどうのキリスト教がどうのと長々書いてきたのだけれど、結局こういうこと(↑)だと私も思う。(ミルトス)
● アベノミクス不況と0206 再稼働反対!首相官邸前抗議!
どの世論調査を見ても国民の過半数以上が原発に反対しているというのに、政府はどうして原発を諦めないのだろう。…。
それでも、それだからこそ、反対している人間が居るぞという存在を示しておくことは大事だと思う。…。
原発の話と重なるけれど、一部の政治家は、邦人救出のために自衛隊を海外派遣できるようにしようとか、全く理解できないことを言っている。例えば、6か月かけてもイスラム国とまともな直接交渉もできなかったのだから、情報収集機能とか人脈を強化しよう、というのなら判る。だが土地勘もなければ言葉もわからないようなところへ自衛隊を出して、何か出来ることがあるのだろうか。世界最強のハイテクと軍事力を持つアメリカだって人質救出は失敗しまくってるじゃないか。
…。
…勇気って言うのは、戦場で発揮されるだけのものではない。ビジネスでも家庭でも(笑)必要なものだ。日本の大きな課題である起業なんか、その最たるものだろう。社会でも日常生活でも、官邸前で抗議するにも、ほんの少しくらいは蛮勇が必要なんだよ(笑)。(抜粋引用)

昨日も関電前に行ってみたんだけど、誰もいなかった。昨夜はこの地方の火祭りがあったので、それで中止になったのかなと思いながら帰ってきてネットで検索してみたら、下のようなブログを見つけた。2013年12月で活動休止になったようなのだけど、「毎週金曜日、関電前でのスタンディングデモは、続けてくださってる方々がいらっしゃいますので、ご参加出来る方は、そちらもヨロシクお願いします。時間は、17:00〜18:00までです。」ーこんなことが書かれてあった。数字と相性の悪い私は又々6時〜だと勝手に思い込んで6時過ぎに行っていたのだ。来週は5時過ぎに行ってみよう。まだ細々と続いているかも知れない。(ミルトス)

● 活動休止のお知らせ
 
● 「帰還事業は棄民事業」(福島より・「人民新聞」)と法政大学声明

● “どちらの正義が正しいか、ではない。だが、「正義」というプロパガンダの裏に隠れた、人々の声を聴くのは、とても難しい” 『わたしの「正義」とあなたの「正義」を入れ替える』 酒井啓子 みすず2014年12月号 みすず書房
 マララをノーベル賞に推薦した人々の手は、実のところ多くの無辜な少女の血で汚れているのであり、こうした人たちのせいで、彼女たちは家の外に出て口汚い言葉を投げかけられることを恐れて、学校に行けなくなったのだ。これらの無辜な少女たちは、歴史書からは忘れられる、ただの統計上の数字にすぎない。(抜粋引用) 

● 2015年世界はハック・アタック(ステルス攻撃)の時代に突入する:第二の3.11事件が計画されていると疑え!
 米戦争屋ネオコンはアンチ・キリスト教、アンチ・イスラム教のサタニスト(悪魔崇拝主義者)でもあります。彼らはサタニストであることによって、戦争世界を正当化します。彼らのミッション は、平和を破壊し、戦争を永続化させることによって、兵器産業でぼろもうけすることです。その結果、世界的寡頭勢力のアジェンダである人口削減計画に寄与できると考えています。…。
  最近、イスラム国がエジプト人キリスト教徒を大量虐殺しています(注11)。この行動からイスラム国の正体がわかります、彼らは米戦争屋ネオコンと同類 のサタニストです。イスラム国の傭兵は別にして、その中枢でイスラム国を牛耳っているのは米戦争屋ネオコンと同系統のサタニスト(アンチ・イスラム教徒かつアンチ・キリスト教徒)とみるべきです。(抜粋引用)