風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ヨハネによる福音書3章16~17節より礼拝説教

函館相生教会牧師久野牧(のぞむ)先生による特別伝道礼拝説教より抜粋掲載。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」ヨハネによる福音書 3:16~17)


聖書の中心的なメッセージは何か、一言で教えて欲しいと求められることがあります。

それに対して聖書の言葉そのものを指し示すということもあります。例えば、「神は愛である」、あるいは「あなたの敵を愛しなさい」、こういう言葉によって聖書の中心的な教えを語ろうとするということもあります。それでも尚十分でないものを私達は感じることがあります。

そういう中で、ヨハネによる福音書3章16節、先ほどお読みしました最初の部分ですけれども、「これこそ聖書の教えの集約である」、と言われてまいりました。宗教改革者のルターは、この3章16節について「これは小さい聖書である」、あるいは「これは小さな福音書である」と、この16節のことを一言で語りました。

聖書全体の中心的なメッセージがここにある、このように私達はこの聖句を位置づけることができるでありましょう。これは聖書の縮図であると言っても良いかも知れません。
しかし、この句はそういった意味では意味が深いのですけれども、必ずしも、分かりやすいものではない、そういう面も持っているのではないでしょうか。



ところで信仰における第一の問題は、「人間が何をするか」ではなくて、「神が私達人間のために何をしてくださったか」、そのことにあるのです。そのように言って良いかと思います。その神が私達のために何をしてくださったかということを知らせるのが、この16節であります。



この言葉に込められているメッセージは、それでは何でありましょうか。それは、神の愛、私達人間に対する神の愛がここに語られている、と言うことが出来ます。

そして、その神の愛は、「神がひとり子イエスキリストをこの世に向かって、又私達に向かって派遣された」、そのことの中に神の愛が端的に表されている、ということをこの聖句は伝えています。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」、これが16節の前半の部分であります。この一文の中の「ひとり子」というのは、もちろんエスキリストのことです。そして、エスキリストを私達に賜ると言うことは、「神がご自身を私達のために差し出してくださった」、そのように言っても良い事柄であります。


もう一つ、考えるべきことは、「世」というのは何かということです。世とは私達人間の世界のこと、もっと言えば私達人間のことが世という言葉で言い表されている、このように受け取ることが出来ます。神がひとり子イエスキリストを私達人間のもとに送られたことの中に、「神の愛」が現れている。神から何かを受けるに値しない私達の中にこういう出来事が起こった。それは神の全く一方的な愛、あるいは神の恵みの故になされたことである。それが16節が語ることであり、このことが聖書の中心的な内容を指しています。



それでは愛とは何でしょうか。それは端的に言えば、相手を大切にすること、相手の存在に敬意を払うこと、相手を生かすように働きかけること、相手といつも共に居ようとすること、そういったこととして言い表すことが出来ると思います。それは別の言葉で述べますならば、相手に対して常に関心を持つこと、こういう言葉で言いかえることが出来ます。

愛の反対語は何であろうか、ということが時々言われます。私達は、愛の反対語として「憎しみ」ということをすぐ思いつくかも知れません。それも間違いではありませんけれども、「愛の反対語は憎しみと言うより、無関心である」、これはマザー・テレサも語ったことです。

愛を持つことと関心を持つこと、これは並行しており、同じ事であります。神は私達を愛しておられる、それは、神は私達に関心を持っておられる、神は私達人間に対してどんな時にも無関心ではあられない。それが愛であります。そしてそのしるしが御子キリストを私達の世界に、私の元に派遣するという出来事となって現れてきた。聖書はその事実を語っています。

そのように関心を持ち、愛している相手に何かを与えようとしたら、あってもなくても良いようなものを私達は与えることは致しません。自分にとって最も価値あるもの、最も尊いものを愛する相手には与えようと致します。私達人間でさえそう致します。ましてや神はそのようになさるお方なのです。神は、ご自身にとってどうでも良いものを私達に差し出し、「これが愛だ」とおっしゃるお方ではありません。神は、ご自身にとって最も大事なものであるひとり子を私達人間に与えてくださった。神が私達人間に関心を持ち、私達を生かそうとしておられる確かなしるしが、このイエスキリストの派遣、イエスキリストを私達に賜るという出来事の中に現れている。聖書はこのことをはっきりと述べています。


さらに、愛や関心を持っている相手に対して、わたしたちは相手と同じところに居ようと致します。同じ立場に立とうと致します。愛は、相手と同じ所に居たい、同じ場に居たいと願うものであります。相手がどんな状況であろうが、愛は相手と共に居ようとする。そういう力、動きを持っています。たとえそうすることが、すなわち相手と共に居ようとすることが、自分に痛みや、又ある種の損失が伴うことがあっても、愛する相手に対してはそのようにしようと致します。 神は、神から離れてしまっている人間の元にひとり子イエスキリストを送ってくださいました。それは、「神がイエスキリストを通して私達と常に共に居ようとしてくださっている」、そのことの現れであります。神はイエスキリストにおいて私達と同じ所にまで降りて来てくださり、そして私達と共に居ようとしてくださっている。そのような形で神の愛は表されました。



それでは何のために神はそうなさったのでしょうか。神の人間に対する愛の行為は何を目的としていたのでしょうか。それについては16節の後半がその点について語っています。「それは御子を信じるものがひとりも滅びないで永遠の命を受けるため」であります。神が御子を派遣された、そのことの目的がこの16節の後半に記されています。人が永遠の命、真の命を受けるために神は御子を遣わされた、そのように記されています。

永遠の命とは、真の命、本物の命のことであります。神はそれをイエスキリストを通して私達に与えようとしておられます。人が真の命に触れることがないままに人生を終わることがないように、あるいは人が真の命を手にすることがないままに地上の命を閉じてしまうことがないように、神は御子イエスキリストを通して私達の元に来て下さり、真の命を与えようとして下さっているのです。


苦しみ、悩み、悲しみの中で、自分は一人ぼっちだ、死にたいと思うのではなくて、「あなたには私がいつも共にいる」ということを知らせる、それによって私達の生きることを助けるために、神はひとり子を送って下さいました。愛されることは、苦しみがないことよりも人生にとって欠くことのできないものなのです。

罪や悪の誘惑に負けようとするときに、私達がこういう自分を神がご覧になって心を痛められるに違いないと考えて、そうしないように踏み止まるために、神はひとり子を見える形でこの世に送って下さいました。

死を迎えようとする時、何の希望もなくこの世を去っていくのではなくて、私達を愛して下さる神の元に行くのだ、神の元に帰って行くのだ、だから怖れることはないという希望を与えるために、神はイエスキリストを私達の元に送って下さいました。
この神との結びつきの中で神の元に帰って行く命、それこそが永遠の命と言われるものなのです。
神は私達人間を救って下さいました。だから私達の生きる時も死ぬ時も、そして死んだ後もずっと私達に関心を寄せ、私達を見詰め、見守って下さるお方なのです。その確かなしるしが、神がひとり子をこの世におくってくださった、あのクリスマスの出来事、2000年前の出来事であります。そのような神の行為がここに記されています。



もう一つ私達がここで考えたいことは、「世」という言葉です。世について、世と言うことについて少し考えてみたいと思います。これは一般的には人間の世界のこと、さらに突き詰めて言えば、そこで生きている私達人間のこと、このように考えて良いと言うことを初めに述べました。

そうであるならば、この「世」という文字のところを、「私達」という文字に置き換えて読んでも、意味は同じと言うことになるに違いないのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに私達を愛して下さった」、このように、「世」という言葉を「私達」と置き換えて読むことが出来ます。

17節も同じであります。「神が御子を私達につかわされたのは、私達をさばくためではなく、御子によって、私達が救われるためである」、こういうふうに言いかえることが出来ます。

世というのは自分とは関係のない、自分以外の何かというのではありません。聖書が言う「世」とはまさに私自身のことであります。一人も滅びないでという一人とは、この私自身のことがここで言われている、そのように読むことが出来ます。全体の中に個が消えてしまうことは決してありません。

そのように世という言葉を私達という言葉に置き換えて考えても良いということを今ご一緒に考えてまいりましたが、さらに進んで、私達はそれを一人一人の名前に置きかえて読んでみる、そういう試みをすることも私達には許されるのではないでしょうか。

この世という言葉を今私達という言葉に置きかえましたけれども、さらに「私」自身、自分の名前をここに入れて考えてみると、神の愛がより身近なものとして響いてくる、伝わってくるように思います。皆さんもそのようにして、読んでみてください。

はたして、そういうふうに読んでいいのかという思いを持ちながら、でも、そうすることによって、神は私のことも考えて下さっている、そういう思いも強くするに違いありません。このように自分自身の名を入れてここを読む時、神がとても身近な存在、身近なお方として感じられるのではないでしょうか。



そしてそのことをさらに深めて考える時に、神があの2000年前に御子をこの世におくられた時、すでに神はこの私のことも考えていてくださった、 「神が御子をこの世に遣わされた時に、すでに私のことも救いのご計画に入れて下さっていたのだ」という、そういう思いもかけないことが明らかにされてまいります。私なんか、私の様な者が、と誰もが言いたくなるくらいでしょう。しかし、あなたもあのキリストがおくられた時に、神の救いの対象の中に入っていたのだということが、聖書が告げる真実、聖書が告げる真理なのです。
神が御自分の民イスラエルに向かって言われた言葉が旧約聖書に、もちろんたくさん出てきますが、イザヤ書に記されている一つの言葉を今お読みします。イザヤ書43章1節であります。


ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」。


神はこの私の名を呼んで、「私があなたのためにひとり子をおくる」と言ってくださっています。イスラエルを選ばれた神、イスラエルをわが民として選ばれた神は、今、新しいイスラエルの一員として私達を選び取ってくださり、あなたのためにひとり子イエスキリストをおくる、そのように語って下さっています。神の御子の派遣の出来事が、この私抜きには起こらなかったと、そのように言い切ってさえ良いほどのことを神はしてくださ いました。

神は私達一人一人の名を呼んで、次のように語ってくださっています。あなたのためにひとり子イエスをおくる。辛い時淋しい時には、イエスの元に行け。罪を犯した時には、イエスを求めてそこで赦しを願いなさい。生きる事に困難を覚える時には、あなたの元におくったわたしのひとり子イエスを見よ。そうすれば必ずあなたは新しく生きる事が出来る。そのようなメッセージがイザヤ書を通して、さらにヨハネ福音書を通して、私達に響いて来るのではないでしょうか。



最後にこのように神様に愛されている、ひとり子をさえ与えるほどに愛されている私達は、どのように神にお応えしたら良いのでしょうか。このことについて最後に少しばかり考えてみたいと思います。尊いひとり子を私達のためにおくって下さった神に対して、私達は何を捧げたら良いのでしょうか。はたして何かを捧げることが出来るのでしょうか。いいえ、何かを捧げることによって、神の愛に十分に応えると言うことなど、私達人間には出来ないのです。

ただ、私達の存在と心を傾けて、信頼を持って、常に神に近づこうとする。そして神の御心を捉えてそれに全力を尽くす。その誠実な繰り返しのみが、私達に出来ることではないでしょうか。

神に愛されている自分であることを知って、決して自分自身を憎むことをしないこと、自分自身を大切に考えながら生きて行くこと、これも又大切な応答であります。
他の人を憎まず、この人も神によって愛され、この人も神によって大切にされている人なのだからということを覚えて、共に生きようとする、これも又神の愛に応える道であります。

神は私達に関心を持って下さったのだから、私達も神に関心を持ち続けながら、神は今、私達に、私に何を求めておられるか、どのように生きることを欲しておられるのかを常に真摯に問いながら、示されたことに忠実に励む。派手なことは必要でない、示されたことに誠実に仕える、それが愛に、神の愛に応える道であります。

このようにして、この世界とその中にいる全ての人々に、自分は神に愛されているというこの事実に立って自分を重んじることの大切さを示すとともに、さらに神に愛されている者同士が、互いに愛し合う世界を作り上げようとして、自分の命を用いること。それが神に対する私達の応答であります。



困難と労苦の中にある人が、キリストを見詰めて、励まし合う力を受けることが出来るようにと願います。

悲しみと痛みの中にある人が、キリストと結び付くことによって、喜びや慰めを与えられるようにと願います。

絶望している人が、神の愛の中で明るい希望を見出して、新たな歩みをするために立ち上がることが出来るようにと願います。

又、人生は生きるに値しないと思っている人が、キリストとの出会いを通して、神の自分に対する愛を知って、そして生きることの意味と価値を新たに発見して歩み始めるようにと心から願います。

そのようにして、神の愛への応答を日々新たにしていく、それが私達に出来ることではないでしょうか。

全ての人が、今、生きる事に悩んでいます。様々な困難、艱難、闘いの中で、生きる事に力を失いかけている人がいます。
しかしそのような人々も、生き悩んでいる人々も、キリストによって自分に差し出されている何ものにも代えがたい神の愛に支えられ導かれて、新しい出発を始めるものとされるように心から願います。
そして新宮教会がこの地において、この神の愛を運ぶ器として、いよいよ良い働きを続けられ、救いの砦としての働きをさらに確実なものとしていかれるように・・・そのような神の愛に対する応答を心から願いながら、今日のヨハネによる福音書3章16節からの神の御心を聴くことを終えたいと思います。




祈り

聖なる神様、あなたは、私達、あなたに背いてしまった者達を決して見放したもうことなく、ひとり子イエスキリストをこの世に遣わし、私のために遣わしてくださいました。

御子イエスキリストが、人の世界でどのような取り扱いを受けるかをご存じでありながら、尚、私達を真の命へと導くために御子を遣わしてくださいました。そして御子イエスキリストは、人の裏切りを受けながら、尚、復活を通して私達に新しい命を約束してくださいました。その事実に触れる時、あなたの愛がどんなに大きなものであるか、あなたにお応えをしようとしない私達の罪がいかに大きなものであるかを覚えます。しかしあなたはそういう私達に対して、主の日ごとに礼拝を通してご自身の愛を示してくださり、「私の元に帰れ、翻って命を得よ」と呼びかけてくださっています。その御声を聴きながら、どうか多くの人々、全ての人々があなたの愛によって、自らの歩みを整えていくことが出来るようにさせてください。

120年余にわたって新宮の地においてそのような神の愛の言葉を語り続けて来られた御教会が、さらにこれからも御委託に応えて、御言葉を宣べ伝え、生き悩む人々の救いのために、あるいは絶望を抱いている人々のために、どう生きたら良いか分からない混迷の中にある人々のために、救いの光を差し出していくものとさせてください。

この礼拝者の中に道を求めている方がおられるならば、いよいよキリストの愛に捉えられて信仰の告白へと導かれますように心から祈ります。

キリストの愛と共に生きてこられた信仰者達のこれからの歩みが、さらに祝福されたものとなりますように心から祈ります。

主イエスキリストの御名によって、この祈りをお捧げ致します。アーメン




祝祷

行って、希望のうちに主に仕え、すべての人に神の愛を伝えなさい。
神の祝福はいつもあなたがたと共にあります。
願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。

願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。

アーメン。