風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

再建されるキリスト(『デリダ 脱構築と正義』から考察する)

私は今、あなたが買って持っていた『デリダ 脱構築と正義』に嵌まって読んでいます。栞が挟まっていた「アブラハムと責任のパラドクス」から読み始めました。

 

それで、「脱構築」とは、建て上げるための前段階なのだと思いました。

 

エレミヤに臨んだ主(しゅ)の言葉が思い浮かびます。

「見よ、今日、私はあなたを諸国民、諸王国の上に任命する。引き抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために」(エレミヤ書1:10)

 

しかし、哲学においては、建て上げることは出来ないのではないかと思える。

 

 「死者に死者を葬らせなければならない」。「十九世紀の革命」はもはやその「詩」を「過去」から汲みとるべきではないというために、みずからイエスの言葉(「マタイ伝」第八章第二十二節)を引用し、幽霊=精霊を呼びだして、パフォーマティヴな矛盾を犯してしまうマルクス

 デリダによれば、死者が死者を葬るというのは「ありえない」ことである。「たとえ人がそう望んだとしても、死者に死者を葬らせることはできないだろう。それは意味をもたず、ありえないことである。(略)」。

 

(略)

 

 さて、問題はしかし、この「ありえない」ことが「ありうる」ということ、起こりうるということである。そして、注目すべきことには、デリダはここに「絶対悪」の可能性を見るのだ。

 

(略)

 

 ありえないことがありうるとは、ありえないことを「欲する」と考えればいいだろう。「われわれは死者に死者を葬らせようと欲することがつねにありうる」(『エコグラフィー』)。その帰結は重大であらざるをえない。幽霊との関係は、すなわち死者としての他者との関係は、いわゆる生きた他者との関係においてつねにすでにはじまっている。だから、死者に死者を葬らせるとは、「われわれの生」の「生ける現在」に自閉し、いっさいの死者の記憶をあらかじめ排除することを意味するばかりではない。それは究極的には、いっさいの他者との関係の拒絶、いっさいの言語の拒絶、呼びかけに応えて「ウィ」を発することもなければ、そもそも呼びかけを聞くこともない、そうした他者との関係の全面的拒絶につながっていかざるをえないのである。この恐るべき可能性からこそ、「正義が望ましいものとなる」というのもうなずけよう。(高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』p273~275)

 

ここで言われていることは、マルクスが引用したイエスの言葉の解釈の時点で間違っている、と言わねばならないだろう。

 

エスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(マタイによる福音書8:18~22)

 

マタイ8の22で語られていることは、以下のイエスのたとえと同じことを言い表している。

 

食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」(ルカによる福音書14:15~24)

 

また、この前には、次のように記されている。

 

また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」 (ルカによる福音書14:12~14)

 

つまり、この部分では、デリダが、「死を与える」というアブラハムのイサク「奉献」のところで語っている「贈与」と同じことが語られているのである。

そして、「死者に死者を葬らせよ」というのは、デリダが言うような「「われわれの生」の「生ける現在」に自閉」することとは真逆の、この世の生活を脇に置いて、神に従うことを求める言葉なのである。神に、アブラハムが無言のうちに従おうとしたように。

 

ルカによる福音書9章では、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った人に向かって、以下のように語っている。

エスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカによる福音書9:60~62)

 

 

建て上げる、再建するとは、キリストでなければできない業であるように思う。

エスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネによる福音書2:19)