「人びとが人間性をもつということは、まず『他人によって見られ聞かれることから生ずるレアリティ』を奪われていないこと」ーこの、アーレントが語ったという「見られること」についての言葉を知って、驚いた。「見られる」ということに負のイメージを持っていたからだ。
● 聖句による黙想16 ヘブライ人への手紙3章4節(新共同訳)
現代では、神は存在せず、すべては科学の法則により、偶然に(たまたま)存在していると考える人もいるが、一方では偶然といいながら、存在の意味を語ろうとする。それは大きな矛盾である。この世は矛盾に苦しんでいる。(抜粋引用)
しかし、この数日、「見られている」ということの重要性を考えていた。お天道様が見ているというような曖昧なものではなく、確かに見ていて下さる方、(精神分析で言われる「超自我」のようなものでなく)厳しいけれど裁きの中に救いを用意して見ていて下さる方を知っているということの重要性を思わされている。
「寝汚(いぎたな)い」という言葉がある。これは「寝坊だ」とか「寝姿がだらしない」という意味のようだが、私はこれは、「目覚めていない」という意味ではないかと思う。目を覚ましていない者というのは、見られているという意識を持たない。よって、だらしなく眠るのだ。目覚めていない者というのは、自分がどこから来てどこへ行くのかを知らないままに生きている。それを問うこともなく生きている。
「目覚めている」ということは、自分が誰によって造られてどこへ帰っていく者なのかを知っているということと等しい。それは、見ていて下さるお方を知っているということと等しい、と思う。
目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである。(マルコによる福音書13:37)
主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。(ルカによる福音書12:38)
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソの信徒への手紙6:8)
しかし、自分が誰によって造られ、どこへ帰って行く者なのか、誰に問えば良いのか。
信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。(ローマの信徒への手紙10:14)
右傾化というのは、そもそも人間の本源に、あるいは聖書的に言えば罪に堕ちてからの人間に具わっているものだと思う。自国のことを第一に考える、自分の住んでいる地域のことを考える、自分の家族を何よりも大事にする、自分のことが一番大事というふうに。
— メロメロピー (@syodainekosuke) 2017年10月24日